クラウンがダム・ウォーゼンの屋敷前に辿り着いた時、先程の駅員が残した言葉が間違いでは無かった事を確信した。
風が真上から吹いて来ているのだ。
ここに近付けば近付くだけ、雪も下降しかしていない事に気付いた。他の場所では真横から吹き付ける時すら有ったと言うのに、この場所では真上からしか雪が吹き付けてこない。
間違い無く、この場所が基点であり全ての元凶――魔剣がある。
しかし、
「おかしいな…? 魔獣が見当たらない…」
そう、魔獣が見当たらないのだ。
強い魔力臭に引き寄せられてくる筈の魔獣が。
ヒトという餌を貪る為に移動するとは言え、一番贅沢な餌はここにあるのだ。クラウンの予想では、先程葬った程度と同じ位は魔獣が居るのを覚悟していた。
しかし現状、魔獣は一匹も見当たらない。
「取り敢えず中か…」
この状況を訝しがりながらも、クラウンは敷地内を進んでゆく。
閑散とした敷地内には、今は既に凍り付いた噴水が鎮座している。今の季節、本来であれば涼しげに水を噴き出し、青々と茂る芝生に彩を添えていただろう。
その一帯を注意深く見渡せば、微妙に雪面に凹凸がある様に見えた。
魔獣は確かに居たらしい。
魔獣が走り回って出来た足跡と、雪が積もっている場所に微妙だが差が出来た為にそう見えるのだろう。今は見当たらないが。
「どう言う事だと思う? ヤヨイ」
『…一番可能性が高いのは、魔獣が魔剣を取り込み既に居ないという物だろう。この異常は儀式場に未だ残る魔石によって暴走状態が続けられている…それが妥当な線かのぅ?』
「だな」
ヤヨイが述べた例に頷き、後は開けるだけの屋敷の扉の前に歩を進めた。
扉の向こう側、この位置から魔術式を使わず出来るだけ情報を読み取る。
この場で魔術を使えばもし中に何か居た場合、感付かれる可能性がある。故に、感覚だけを総動員して中を探る。
「目の前には…居ないな…多分だが」
相手側が既に気付いて、こちらを奇襲する為に気配を消しているなら分からない。
だが、踏み出さなければ何も解らない。
まぁいい。後は奇襲されてもそれに反応し、迎え撃つだけだ。
思考を切り替え、何時でも一撃で相手に致命傷を負わせられる様に身体を程よい緊張で包む。そして一つだけ息を吐き出すと、その扉を開けた。
「………」
誰も、居ない。
左右、そして上、入り口から見渡せるだけを見渡すが、侵入した魔獣の姿も、その残滓すら感じられない。敷かれた絨緞には黒々と血痕が染みこんでいるのを確認出来るが、誰の、というのは断定出来ない。獣臭さや血の臭いが混ざり合っている為、その血液が果たして屋敷の人間の物なのか、それとも斃された魔獣の物なのか、その判断がつかない。
見渡せる限りのエントランスホールには所々黒い染み――血痕があるが、それを除けば後は怪しい点は無い。視線も殺気も、何も感じられない。
―――いや、逆に異常か。
エントランスに踏み込みながらクラウンが胸中で呟く。
その頭の中で考えた言葉はヤヨイにも届いたのか『そうじゃな…』と小さく相槌を返してくる。
『綺麗に食われすぎだと思わないか、クラウン。今までの場所を思い返すなら、魔獣が居た場所には乱雑に身体の一部が転がっているなんてのは普通にあった。これは、余りにも綺麗過ぎる』
『そうだな…それに、出血量も少ない…変だ』
エントランス、その一番最寄の血痕の前に腰を下ろして見つめる。
血の量が少ない。
そうだ。魔獣に食われたなら、もっと大量の血がばら撒かれていても不思議ではない。喉笛を噛み千切って致命傷を与え、肉の柔らかな腹部や大腿に喰らいつけば、それこそ太い血管もあるそこは大量の血液を噴出させる。
だが、このエントランスに広がる点々とした染みは、一つ一つがそれに満たない。
明らかに“足りていない”のだ。
腕を食い千切り、その血で絨緞が濡れ――そしてその後、溢さない様に喰らい尽くす。味見をして、そして食う。それはまるで―――
『まるで、ヒトが食った様な…』
『………』
『まさか、な…』
頭を振って、考えを否定する。
確かに可能性はある。あるが、それは余りにも――悲しすぎて、虚しすぎる。
ヤヨイもその可能性は認めては居るのだろう。しかし納得は出来ない様子だ。
しかし、この状況を何時までも続けていても無駄だった。判らない物は判らない。幾ら予想した処で、“答え”はこの場に存在していないのだ。
クラウンは見切りをつけると、屋敷の奥へ向かって歩き出した。
エントランスの奥の扉を開け、先を見通す。
そこは更に闇に包まれた領域。エントランスに比べれば、隠れられる様な物は無さそうなので奇襲を受ける様な真似は無いだろうが…何分扉の数が多い。一つ一つ調べていくのは骨が折れる仕事だろう。だが、それは必要無い。
『分かるか、クラウン』
『当たり前だ。扉一つ潜る度に温度が上がる様な感覚…。場所を特定出来なかったら、命のやり取りをする人間としては失格だぞ』
『愚問じゃったか』
殺気を当てられるのとは逆。強い魔力が放射され、まるで太陽の日差しを浴びるかのように肌がチリチリと発生源を捉えている。
明かり無き邸宅の中、暗い通路を歩き出す。
一歩進むごとにその力が強くなって行く感じ。
魔剣を媒介に何の儀式を行おうとしたのか?
その原因に一歩一歩近付いて行く。
やがて、一つの扉の前で足を止めた。
「………」
胸中でヤヨイに『開けるぞ』と話しかけると、その答えを聞く前に扉を押し開けた。答えは分かっていたから。もう、開けるしかない、と。
扉を開き、瞬間、光が溢れた。
「っ…」
魔力の光だ。
目を細め、部屋の中を覗く。
製錬された魔石と、それを繋いだ簡素な設備。魔術回路を魔石間で引いて構成し、一つの儀式場を作り上げている。
そして、この儀式のタイプをクラウンは見た事があった。
「魔者を降臨させる為の…召喚陣…?」
そうだ。
これは魔者を降臨させる為の儀式の場だ。
自分は体験していないが、友人が魔者を降ろす時に、もっと複雑に完全に構成された召喚の陣を見た事がある。この陣は形こそ簡素だが、確かに召喚の為の陣と同じタイプの物だった。
『クラウン、陣の中を見ろ』
「ん?」
視認可能なレベルにまで高められた魔力が発光するのに目を細めながら、ヤヨイに言われた通りに陣の中を覗く。
そこには、
「女の子…?」
『いや、アレは魔者じゃ』
「魔者? 儀式を行って、ほっぽり出したってのか? 契約もせずに?」
『今の外界の現状を見ておれば分かるじゃろう?』
「―――成る程。あの子を降臨させるのに魔剣を使用した挙句、この現状か…笑えないな…責任を取らずに逃げ出した、ってのが妥当な判断かね」
気を失っているのか、少女は陣の中でうつ伏せに転がっていた。
青い髪を床に広げ、白い厚手のダッフルコートに身を包んだ少女。顔の造形はうつ伏せになっている為に見る事は出来ないが、外見的な年齢は10歳〜12歳、と言った処だろう。無論、魔者であるのなら外見的な年齢は何の役にも立たない。
魔者は生まれた時から、さほど身体的変化は無いのだ。
ヤヨイも外見的には20代前半であるが、本人によれば、生まれてから既に500年以上は経過しているらしい。
魔者ほど外見が中身に伴わない存在は居ない、と溜息を吐きながら、そっと陣へと近付く。
クラウンは陣の前に片膝をつくと、倒れた少女に手を差し伸べる。
契約が施行されていない為にこの陣の中からは出す事が出来ないが、外側から手を差し込む程度なら出来る。
『召喚者の代わりに契約するのか?』
「この子にその意思があるならな」
少女を両手で支え、状態を仰向けに変える。
はらりと顔に掛かっていた青い髪を払うと、そこには端正な顔があった。
その筋の特殊なヒトには堪らないだろう。
…俺は違うがなっ。
「契約する、っても…反対はしないのか?」
『…ふむ、妾が妬くと思っておるのか?』
質問を質問で返されるが、その質問こそがヤヨイの答えだ。
ヤヨイの感性は違う。
簡単に言えば『自分が一番なら、どれだけ女を囲ってようが関係ない』という考えの持ち主である。
いや、それ以前に本来であればヒトと魔者の間に色恋の話は無い。あくまで相棒だからだ。
ヒトの男に魔者の男がつく事もあれば、ヒトの女に魔者の女がつく場合だってある。
しかし、そこに色恋の話を持ち出してしまうのは、相棒が異性なら当然だろう。
『妾の身体に飽きたのか、とでも言って欲しいか?』
「魔者としての能力から…肉体関係まで色々とそこから想像出来るから止めような?」
『妾を抱いた事など、数えるのも面倒な程あるじゃろう。何時までもウブじゃのぅ…お主は』
「はっはっは、貴女ほど外見と中身がズレてる奴も居ないだろうがな!? エロヤヨイ」
エロい事を普通に喋るヤヨイ程、外見の清楚さが伴っていない奴は居まい。
発情して、自分から襲ってくる程の猛者であるが、そんなヤヨイも普通に綺麗だとか可愛いだとか褒めると、普段の無表情面を真っ赤にして顔を俯かせ、行動不能に陥る。何とも基準がズレてるというか吹っ飛んでいるというか、そんなお方だ。
「それで…」
『うむ?』
「話を戻すが、契約はしても構わないのか?」
『妾は構わん。それよりも、そっちの娘を優先してやれ。召喚に出戻りは無い。戻すにしてもそれなりの手順が必要だし、このまま契約をしなければ肉体を構成する為の術式も発動しないから、ちょっとした術式が発動しただけで吹き飛ばされるぞ。風船が風に乗る様にな。地に足が着いておらん状態なんじゃ。お主が出逢った時の妾の状態とは違う』
「あぁ…お前は堕界してたから、契約者が居なくても肉体はあったもんな…」
通常、魔者は召喚の儀式を受けてこの世界に降臨する。
その上でヒトと契約する事で肉体を得る為の術式が発動可能の状態になるのだ。彼らは通常、この世界に存在しない者達であるから、その事はしょうがないと言えばしょうがないのかもしれない。
受肉した魔者は、こちらの物質に触れられる様になる訳だが、裏技としてその過程を経る事無く、こちらの世界に物理的干渉を行う事が可能だ。
それが堕界という、自力での降臨である。
このフォール・ダウンを行うと、あらゆる術式能力を封じられる代わりにこの世界での物理的干渉権が与えられる。この状態であれば、精霊の半永久的な寿命のままにこの世界で生きる事を許されるのだ。
しかし、勿論リスクは存在する。
本来、降臨した魔者には“この世界”からの攻撃的干渉は及ばない。彼らは上位の世界に住まう者達だから、下位世界の者達に触れられるならまだしも、彼らを害そうとする接触は傷をつけるに及ばないのである。
しかし、フォール・ダウンした者はその存在を上位から下位に任意に落とすので、この世界において殺される危険性が出てくる。
彼らを殺す手段が無い訳では無いが、それは一部の者――魔者と契約し、上位世界の力を扱うリンカーの攻撃など“権利”を持つ者達だけだ。その“一部の者”以外からも殺される危険性が増すのは自殺行為だろう。
加えて、魔者は契約していなければ魔術式を一切使う事が出来ない。
契約権限により、契約者の元に空間跳躍もする事が出来ない。
契約していない状態のフォール・ダウンした魔者は、物理的な攻撃でしか襲い掛かってくる脅威を跳ね除ける事が出来ないのだ。
クラウンは召喚の儀式を行っていない。
クラウンは、フォール・ダウンしたヤヨイと出逢い、紆余曲折を経て彼女と契約したのである。
既にこちらの世界で数百年を生き延びていた彼女と。
この召喚陣の中の少女はフォール・ダウンも、ましてや契約もしていない。
肉を持たない上位存在のまま、その陣の中に存在しているのだ。
この陣に流れている魔力が途絶えれば、彼女はこの世界での一切の物理的干渉を失い、契約者を見つけるまでは帰る事も肉を持つ事も出来ない不安定な存在に成り果てる。
「…うっ…」
「!」
と、クラウンが看る先で少女が呻き声を上げた。
意識をヤヨイとの会話から引き戻すと同時、少女の瞼がゆっくりと開いて行く。
「ここ、は…」
「大丈夫か?」
「っ!?」
覚醒したばかりの身体を無理矢理起こし、魔者の少女が身を跳ねさせてクラウンから距離を取る。一瞬で陣の端まで下がると、警戒した目付きでクラウンを睨みつけた。
そんな行動もしょうがないか、とクラウンは頭を掻きながらそんな少女を見る。
召喚されたらすぐさまほっぽり出されたのだ。警戒するのは当たり前だろう。
頭の中で出来るだけ優しい声で喋らないといけないな、と考えて口を開く。
「あのさ、君は召喚されたんだよな?」
「…そうよ」
「召喚した本人が何処に行ったかは―――」
「っ!」
召喚した本人。その言葉が出ると同時、少女の白かった肌が一層白くなる。
その反応に眉を顰めるが、正直分からない。
召喚した程度で相手に害を与える事などは不可能なのだから。
だったら何にこの少女は怯えているのか?
「つっ…あのティンダロスの猟犬は――ここに居ないのよね? 貴方が殺してくれたの!?」
「待て、少し落ち着け。ティンダロスの猟犬? ティンダロス、ってのは確か…」
『瘴魔の別名…いや、一番古き呼び名じゃな』
ティンダロスの猟犬――現代で忌み嫌われる世界最強の害悪存在。約300年前に深淵の扉の向こうから軍勢で現れ、全世界を破滅の危機に追い込んだ者。
しかし、何故そんな名前がここで出てくる。
現代では瘴魔と呼ばれる者達は、滅多にこちら側には出てこない者達だ。
それこそ高ランク所持のギルドメンバーや、巡礼教団の上位騎士が相手取る程の者が出てくるのは年に二、三体。多くても五体だ。
加え、濃密な瘴気が発生する場所――戦場跡地や、腐敗した儀式場程度でしか彼らは出現する事が出来ない。魔者以上に現世へ現れるには制限が掛かった者達なのである。
それが、どうしてこの話に出てくる?
「まさか…魔剣を媒介にした事で“深淵の門”が…?」
「違う…もっと根本的にアイツは、」
カタカタカタカタカタ――――…
「!?」
少女がそこまで話した時だった。
風を受けて偶にカタカタと小さく音を鳴らしていたガラス窓が、激しく振動し始めたのだ。
―――何だ? 風が強まった…?
いや、違う。
これは―――鳴動だ。
「も、戻ってきたわっ! アイツが!!」
少女を視界の端に入れれば、存在の位高き存在が怯えている。
フォール・ダウンしていなければ傷さえつけられない筈なのに。
いや、傷ならつけられるか。
同じく上位存在を扱うリンカーや、そう、人類全てが恐れるその存在――瘴魔、またはティンダロスの猟犬であれば。
その考えに至った時、すぐさま少女の前に片膝をついた。
手を陣の中に突っ込んで、その手で少女の顔を無理矢理にでも上げさせる。
「正体は取り敢えずなんでもいい。それでも“アイツ”とやらは君を傷つけられる“権限”を持ってるんだな?」
無理矢理合わされた視線に戸惑い、怯えの表情を浮かべながらも、少女は頷いた。
それなら拙い。
“アイツ”とやらが戻ってきたならば、殺される危険性が出てくる。
だったら無理にでも連れてかなければならない。
「俺は既に契約している身だ。君が二人目の契約相手になる」
「何、を」
「ここで俺と契約しろ」
「で、でも、それは…」
ちらり、と少女の瞳が未だ変化したままの漆黒色の剣を見る。
葛藤しているのだろう。既に契約している魔者と、そしてクラウン自身がどんな者か解っていないのだ。迷うのは分かる。
しかし、契約しなければ―――
「この陣から出れないまま、ここで殺されるのか? 送還の儀式を行うにも、君が言った事が本当ならもう時間が無いし、魔石も不十分だ」
「!!」
驚愕と、絶大な恐怖。
殺されるという恐怖に、ビクリと肩が跳ねる。
これじゃぁ脅迫だな、と頭の中で苦笑する。ヤヨイも『全くじゃな』と自分にしか聞こえに様に語りかけてきた。
しかし、今はこうするしかない。
ここに置いたままでは、事態がどう転ぶか更に分からなくなる。
「わ、分かった。契約、する」
「すまない。それと―――ありがとう…」
出来るだけの優しい笑みで、少女の頭を撫でる。
外見年齢に対しての行為としては合っているかもしれないが、実年齢が自分よりも上だったら失敬な行いだ。しかし、その温もりは少女の表情を僅かだが緊張状態から解す事が出来た様だった。
手を離すと、僅かだが少女が名残惜しそうにクラウンの顔を見上げた。しかし、そんな自分の行いが急に恥ずかしくなったのか、表情を瞬時に元に戻すと視線を再び合わせてくる。
「…ここで何時もなら冗談でも言う処だが、生憎と時間がどれだけあるか分からない。契約の方は良いか?」
「い、良いわよ」
その返事に一つ頷き、クラウンは親指の肉を噛み千切り出血させると、その血が流れ滴る手で少女の手を握り締めた。
「我が名はクラウン・バースフェリア。下位世界の住人なり。我は其が力を求め、呼ぶ者。この契約を以ってして、其が力を使う権限を受け取りたい」
力を持つ言葉、祝詞がクラウンの口から発せられると同時に、陣を形成していた魔力の光が再び力強く発光を始めた。
全ては世界と世界を繋ぐ行為。
上位世界の者に助けを請い、その力を借りようとする神秘。
長く、永く―――自分達の祖先が楽園に存在していた頃の絆を辿る様に、その手を優しく、しかし力強く握り合う。
それは信用の証。
信頼を築いて行く契約。
少女がそっと微笑み、クラウンの手を握り返した。
「我が名はスゥ。スゥ・ディ・【ホワイティア】…水の系列に属し、雪を司りし精霊なり」
視線を交わし、互いに頷く。
「我が力を扱う権利、貴方に託します…」
瞬間、衝撃。
契約の終了と同時に、屋敷が揺れる―――衝撃。
「っ!!」
契約が完了し、受肉したばかりの彼女を、その握り合った手で引っ張り上げて抱きあげる。
少女の小さな悲鳴が上がるが今は無視だ。
胸元に抱きしめて、一足で部屋から開け放たれたままの扉の外へ躍り出た。
瞬間、陣が張られていた部屋のクラウンが居た位置が吹き飛んだ。
そこに在るのは等身大程の氷柱。
外から直接あの場所を狙って攻撃してきたのだろう。
と、大きな魔力の波動に気付き、クラウンはその場所を蹴って走り出した。
ドガンッ!!
一つ盛大な破砕音が響いた瞬間にクラウンを正確に狙っただろう氷柱が床を穿つ。
クラウンはその光景に一つだけ舌打ちすると、更に力強く床を蹴って廊下を走り始めた。
再び破砕音。
次は容赦無い攻撃だ。
立て続け様に訪れる破壊の音は、廊下と部屋を隔てる壁を根こそぎ破壊しながら外から連続して撃ち込まれてゆく氷柱によって奏でられる。クラウンの背後に広がるのは、無残にも氷柱によって豪奢な外見など欠片も無くなった一地帯だ。
クラウンは背後に気配を払うのを止め、眼前にあったエントランスへの扉を蹴り開ける。
「っ!!」
瞬間、眼前に広がったのは飛来する氷柱の群れ。
クラウンは右手で握るデュエット・レイゼ【シンス・ミーディナス】を強く握ると、その飛来する氷柱を斬って落とす。
連続して飛来する氷柱の群れは、それ単体で必殺。
一発一発が高速で射出されただろうそれらは、玄関の向こう側から壁を撃ち抜きながら飛び込んでくる。
殲滅を意識した術式展開だ。
しかし、クラウンはその全てを斬り飛ばしては弾道から外れて行く。
並外れた誓約魔剣――デュエット・レイゼの剣としての質もさる事ながら、クラウンが繰り出す剣閃もまた一級品だった。しかもそれが、左手で少女を抱いたままに行われているとなれば、その技量は推して然るべきだろう。
クラウンは紛れも無く最高の剣士である、と。
「………」
氷柱による攻撃が止む頃には、クラウンの回りや背後は氷柱が乱立する地獄と化していた。
スゥがその状況に驚愕の表情を浮かべるが、クラウンは玄関の向こうを見据えたまま動かずに剣を構えたままだった。
何か、来る。
そう感じた時、影が玄関の向こうから出現した。
「なっ…」
ゆっくりと、ゆっくりと歩いてくる影。
左手には頭の無い魔獣の胴体。
右手には融合した冷気を垂れ流す魔剣。
その姿は―――
「ちっ…ここに入って来た時に推理した事が正しかったか…」
答えは既に述べていた。
血の量が少ないと感じた時に、その正体を自分で口に出していた。
「まさか…生きたままに人間が魔獣化するなんてな…」
こちらを、いや、正確に言うなら“少女を抱き上げた状況”を忌々しく見つめる人間の顔。
魔獣とは瘴気に当てられた意思無き者が変質して発生する。故に殆どが動物であり、または植物や無機物だ。
そこにヒトという種は含まれない。
瘴気に抵抗するだけの意思を持ち、また、瘴気に汚れ穢れる程の生活環境が存在しないからだ。
戦場となる場所でさえ、巡礼教団ヴァナディアが各地に展開し、その瘴気を浄化しているのだから。
この町にも居ただろう。そういった役割を持った者が。
だから、本来であればヒトが魔獣化する事はありえない。
死んだヒトが瘴気の影響により、ゾンビとして魔獣化する事はありえる。しかしそれでも殆どは火葬である為、火葬するような余裕が無い場所でなければそれすらも発生しない。
ましてや生きたまま魔獣化するなんて事態は、今までクラウンが知る中では存在しない。
「ソレをヨこせ…」
身体を震わせる様な低い声。
脳に直接訴え掛ける様な声に、クラウン、そして剣に宿る声が呻き声を上げる。
『馬鹿な…魔獣化して、未だ知能があるというのか…』
「成る程…スゥが“コレ”を魔獣じゃなく、ティンダロスの猟犬…瘴魔だと言うのも解るね…」
魔獣は会話を行う程の知能を持たない。
賢いと言っても、それは精々で生前動物が行う行動程度の物だ。
しかし、生きたまま、しかも人間が魔獣化したとあってか知能を保有した状態で存在している。
それは高度な知能を持ち、異常なまでの戦闘能力を保有する瘴魔ととても似通っていた。
考える、という行動を持つ相手と相対するのは非常に厄介である。
考えるという行為が出来るなら、多少の実力差も埋められる事が可能だからだ。それはヒトが繰り返してきた戦闘技術。罠に嵌め、相手を出し抜き倒す。決して知能無き動物には出来ない行い。
「会話が可能なら一つ訊きたい。どうして魔者を欲しがる?」
クラウンの言葉に、未だ忌々しげに視線を向ける元人間の瞳が揺らぐ。
相対している相手に時間を与えても良いのか、と考えている様な反応。
どれだけ元の人間としての知能が残っているかは判らないが、それでもある程度を思考する力は残っている様だ。
やがて魔人は口を開く。
「ボクは、強くナりたい」
「強く?」
スゥを召喚した人物なのだろう。
強くなりたいとは、つまり契約したいという事だろう。
しかしその状態では―――
その時、しがみついている状態のスゥから意識が流れ込んでくる。
ヤヨイと同じ、接触点を介しての念話だ。
『?、どうした?』
『アイツは契約をしようとしている訳じゃ無いわ…いえ、元はそうだったのかもしれない…もしもアイツがヒトのままだったのなら、私は確かにアイツと契約した。だけど、だけどアイツはっ』
「ソレを、クわせろ、ゴミめ…」
スゥの言葉を代弁するように、魔人は答えた。
食う? 食うと言ったのか? 何を?
ソレを。つまり魔者を食う。つまりは吸収するというのか。
馬鹿な、と考えると同時、奴が持っている魔獣の屍骸が目に入った。
―――まさか、
魔獣を食った事は予想の範疇であり、既に答えを出した。
その上に更にもう一つ考えがあったのなら?
契約し、現世に受肉した魔者に傷を負わせるには、同じく上位存在の力による干渉が必要だ。本来魔獣程度では、魔者に傷を負わせる事は不可能。契約している本人でさえ、相手がフォール・ダウンしていなければ傷をつける事は出来ない。それなら吸収なんて行為はもっての外である。
だったらどうすればいい?
―――そう、自分の格を上げればいい。
魔獣は無理だが、瘴魔なら魔者に傷を負わせる事も可能だ。
それならば“ソレ”
になればいい。
低位存在を幾つも幾つも食い、取り込み、同化すれば―――塵も積もればやがて山となる。
魔剣で傷を負わせる事は可能だっただろう。しかし、本人が接触する事は出来ない。
だから奴は一度屋敷を離れ、魔剣におびき寄せられてきた魔獣を食い散らかしたのだ。
それは一つの考えだったのかもしれない。雪に閉ざされた世界を作る事で、逃れる場所を限定する。
ここは奴の狩場なのだ。
この町一つを魔剣によって区切り、その中に居る者達を喰らう為に作った雪世、界―――?
待て、
狩場、狩場、狩場?
この狩場に居るのは魔獣だけじゃ無い。
この雪世界に居るのは、魔獣よりもずっと――の方が多い。
この世界は、もしかして―――
「…ヒトを食う為にこの世界を完成させたのか…?」
このクラウンの考えに、ヤヨイとスゥが息を呑む声が伝わる。
当たり前だ。こんな残酷な話があって良い筈が無い。
それは共食いという行いだ。
ヒトがヒトを喰らう。この小さな町だ。殆どの者が彼を知り、彼に知られているだろう。その見知った顔の相手の腕を味見しながら喰らい、そして今度は丸ごと喰らう?
それはどんな暴挙だ。
だが、魔人は首を傾げ、至極不思議そうに口を開いた。
「オ父様も、オ母様も、ボクに協力シテくれた。ボクが強くなる為に、イマはボクの中で二人とも力を出しテくれてイル。何が悪イ?」
「お、…」
親を―――食ったのか。
ダメだ、と思う。
この魔剣を融合し、暴走した存在を生かして助けるのは無理だ。
親を食い殺した。きっと町に出て、逃げようとするヒトも食ったのだろう。
ダメだ。彼は―――既に堕ちた。
もし助けられたとして、彼がヒトだった頃の心を取り戻したとして、同族を食った事に耐えられるか?
それは不可能だ。
同族を喰らう。それは禁忌である。
禁忌に触れた者は、須らく墜落する。
心を蝕まれる。
罪の意識に苛まれる。それが知り合いなら、尚悪い。
喉を掻っ切ってすぐさま自殺するだろう。
ならば、何が最善か?
「………」
無言で、スゥを抱きしめる手で胸元から一つの飾りを取り出す。
魔石を飾ったその銀細工は、デバイスを失った時の為の物だ。
魔剣状態にシフトする事は出来ないが、簡易的に接続状態を作り上げてくれる。
つまりは、スゥにもヤヨイと同じようになって貰うという事だ。
「スゥ、この魔石に宿っていてくれ」
「アレを…斃せるの…?」
当然の疑問。
あの、魔力と命を喰らって肥大化した魔人を殺せるかというのは、当然考える事だろう。尚更魔剣を持ち、思考する術を持っている。並みの者なら斃すのは難しいだろう。
だが、それは愚問だ。
「直ぐに、終わらせる…」
「―――――」
それは安心させる為の言葉ではない。
それは、事実だ。
スゥがクラウンの瞳を覗き、静かに頷く。
「!!」
魔人が見つめる中、スゥはクラウンが持つ銀細工の中に光の粒子となって消えて行く。
クラウンの視線が魔人の瞳を射抜いた。
―――欲しいなら、やってみろ。
そのクラウンの瞳に魔人の濁った瞳に憤怒の色が走る。
瞬間、魔人の足元が爆裂した。
「キサマアアアアァァァァAAあアアッ!!」
間合いの距離は15メートル弱。
しかし魔人の踏み込みは僅か二足でその距離を縮めた。
それは刹那の間。
右手に融合した魔剣が既に振り被られていた。
接触―――爆砕。
己の加速と、魔獣化した豪腕でもって叩きつけられた魔剣は容易く絨緞の下の床を吹き飛ばし、捲れ上がった大理石の弾丸が宙にスロー再生で飛び上がる。
魔獣の瞳が下から上に移動。
「!!」
瞬間、驚愕。
クラウンの姿はエントランスの二階。そこにあったからだ。
空間干渉系の魔術式すらも使わずに、クラウンは己の身体能力を魔術式で倍加しただけの状態で跳んだのだ。しかも剣が振り落とされるか否かの刹那的な間だけで。
魔人は驚愕の表情を憤怒に染め、振り下ろした剣――その切っ先をクラウンに向ける。
―――魔剣による現象顕現か!?
クラウンの脳裏に走る魔剣の危険性。
魔剣は魔者による演算ではなく、論理の組み合わせで行われる。
魔剣の中には既に術式構成が詰め込まれており、それを組み合わせるだけで魔術式を発動する事を可能としているのである。
故に、演算と只の組み合わせで言えば、確実に組み合わせの方が迅い為、それがコンマ数秒差とは言え、決して侮ってはいけないのだ。
クラウンがエントランス二階の手すりに着地しながら瞬間的に身を捻ると横に跳躍。術式の打ち合いでは、相手の実力が解るまでは不用意に術式を連発しない方が無難である。尚更、魔剣という凶悪な代物を所有しているなら撃ち合いは控えるべきだ。
それは決してヤヨイが劣っているという訳ではない。
魔術式の威力で言えば、ヤヨイは決して魔剣には劣らない。しかし、先ほどの氷柱を連発して撃っていた事から解る様に、魔剣は“今し方使った魔術式だけは”そのまま空間に残して使う事が出来るのである。故に、下手に撃ち合いに持ち込まれたら確実に押し負ける。
そして、魔剣には、
魔剣発動―――騒嵐・狂撃氷爪
【起動詞】が必要無いのだ。
「!」
瞬間的に発動した魔術式からはまるで暴風の如き勢いで鋭い氷の刃が射出され、エントランス二階の手すりを悉く破壊すると、勢いを全くと言ってよいほど殺し切れなかった氷の刃が、その後ろにあった壁と扉を吹き飛ばしながら突き刺さる。
その光景にクラウンは一瞥だけくれると、そこで初めて剣を相手へと向けた。
「【月を誘え】」
比較的短い言葉によって発現したのは、漆黒の剣、その刃の処だけに纏われた光だった。
その光は蒼白色に輝き、世界を喰らわんとその存在を煌かせている。
―――斬加・斬鋭閃
月の魔剣、ヤヨイの化身、その切れ味を倍加させる魔術式。
相手の魔術的防御を、結界を、障害を引き裂いて相手を斬る直接斬戟の為の魔術式だ。
輝き出した魔剣を引っさげると、クラウンはエントランスの二階床を蹴った。
驚異的な脚力によって移動した先は壁、そこから勢いを殺さずにそのまま壁を走り抜ける。
ガン、と魔弾の炸裂音を背後に聞き流しながら、クラウンは一際強く魔人へ向かって壁面を足場に踏み込んだ。
ひゅ―――ガギン ン ン ―――ッ!!
振り下ろされたクラウンの一戟と魔人が振り上げた魔剣の一戟が接触し、甲高い金属音を世界に轟かせる。
クラウンはそのまま軽業師の如く体勢を投げ出すと相手の背後に着地。刹那の後、振り返った魔人の刃とクラウンが背を見せたまま背後に切り払った刃が再び火花を散らした。
「俺は、お前を救う事が出来ない」
小さく呟かれた言葉をそこに残し、その言葉を打ち抜く様に氷の弾丸が降り注ぐ。
クラウンは魔人の横、そこに何をするでもなく―――否、その自然体こそが今のクラウンの構えか。その剣を只下げた姿で、魔人の顔を捉えていた。今はもう、人間を止めてしまった男の顔を。
「ドウシタァッ!? こノまま、塵が吹き飛ブようニ殺さレルかぁッ!?」
魔人が振り上げた剣に氷雪の嵐が渦巻く。
剣の周りを高速回転し始めた渦巻く風は小さな氷礫を生み出し、剣単体の威力以上に力を引き上げていた。直撃を受ければ良くて重症、殆どの確率で即死するだろう。
「もう、何も聞こえないのかもしれない。もう、何も解らないのかもしれない。望んでそうなったのかもしれない。望む事無くそうなったのかもしれない。そこに意識は無かったのかもしれない。そこに意識はあったのかもしれない。伝わらないし、聞こえなかったのかもしれない。だが、」
クラウンは渦巻く氷獄を直視しながら尚、その視線は魔人の瞳に合わせたままに話す。
「お前は殺し過ぎ、そしてもう―――贖う事は出来ない身体になってしまった…だから、」
「死ネ!!」
「俺がお前に、最後の安楽をくれてやる」
魔人が飛び出し、氷の竜巻をクラウンに向かって叩きつける。
それは斬戟ではなく、破壊。
凝縮された氷の刃の群れは一斉に降り注ぎ、ホール一面を吹き飛ばして砕けた氷がダイアモンドダストの如く宙空に振りまかれる。
刃先は立ち込めた粉塵によって見えない。
仕留めたのか? と考えて魔人の頬が緩んだ。
しかし―――――背後に気配。
「【振り仰ぎしは血塗れの三日月】」
それを最初、魔人は幻聴だと思った。
背後からは聞こえる筈の無い声。たった今叩き潰した筈の男の声。
圧縮された氷の嵐を、背後に立っているだろう男に向けて振り下ろした筈なのだ。
それでも、男は死なないで背後に立っている。
有り得なかった。
様々な要因の中で、魔人自身が通常の人間を超越した存在だと自負している部分に亀裂が入る。
魔剣を取り込み、両親を食い、魔獣を食い、逃げる人々を食い、そして再び魔獣を食う。
それの何処が間違っていたと言うのか―――?
取り込んで取り込んで取り込んで取り込んで、それを繰り返して―――強くなった筈なのに、今まさに殺されようとしている。
ずぐんっ…
刃が衝き込まれ、しかし深く抉る事無くその刃先は抜かれた。
何故、と魔人が思考する。
しかし思考した瞬間、溢れたのはヒトだった頃の思い出だった。
「アァ…」
目の前に佇む男を叩き伏せる事を考えれば良いというのに、思考は別の事に向けられていた。
過去から現在へ流れる自分が刻んできた歴史。
忘れていた思い出。
自分が何故力を欲したのか、その意味。
それは―――
「―――ボクは、誰かヲ護る為の力が、」
「終われ」
―――欲しかったんだ…。
涙は流れなかった。
だが、それを代弁し、懺悔する様に紅い雫が魔人の視界を満たしていた。
体内で異物が生まれ、肉を裂き内臓を食い破って外に出ようとしたモノ達が、首から胸から肺を心臓を食い破っては突き破り、五臓六腑を殺戮し尽くし腹を背を切り裂いては外側に次々と溢れ出して来る。
―――斬滓・紅月咲刃
発動待機状態のまま叩き込まれ、しかし崩壊する事無く止まった術式は、そのクラウンの言葉で展開されたのだ。
咲き誇ったのは真紅の桜。
魔人の中で炸裂し、内側から飛び出た幾本もの血塗れた剣を枝に、あちらこちらから噴出した血液が花の様に咲き誇った。
何て残酷な殺し方か…。
突き出した刃によって、魔人は倒れる事すら出来ずに立ったまま死を待っている状態だった。
その、もう動く事も出来なくなった憐れな囚人を前に、クラウンは目を細める。
「このまま俺が魔剣が融合している腕を斬り落とせば、お前の身体は再生能力を失って死に至るだろう…」
クラウンは剣を振り上げ、瞼を下ろした。
最期に、断罪を下す執行官の如く静かに、その口を開く。
「只の事故、だったのかもしれないが―――せめて安らかに…」
魔人が、先程まで憤怒の色に染めていた瞳を、今は只虚無的な色に落として刃を見上げた。
思い出した記憶と、自分がやってしまった事が心を苛み、苦しめる。生きているのが辛いと、そう思ってしまった元人間には、その振り落とされる漆黒色の剣が、不吉ではなく、最大限の幸福に見えていた。
嗚呼、どうか僕と言う咎人に断罪を。
無音の世界に、風を切る音、次いで肉を断つ音が響く。
切断され、肉体との結合を失った魔剣は甲高い、悲鳴にも似た音を立てて床に転がった。
クラウンが目を魔人に向ければ、そこには先程までの悪鬼と呼ぶべき姿は既に無く―――只、無垢な少年が片腕を失った状態で刃に磔にされていた。
その光景に再び目を瞑り、クラウンは呟く。
「葬滅―――完了」
#5-end
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