魔剣の力によって発生していた雲は何事も無かったかのように消えて行くと、そこには夕暮れの空が広がっていた。今の季節、本来あるはずの夏の夕暮れ。屋敷の外から見える世界には、確かにそれがあった。
積もった雪は直ぐには無くならないだろうが、それも数日で消える事だろう。
そして、同時に人々の葬儀が行われて行くのだ。
「一応、これで終わりか…」
「果たすべき事も果たしたしのぅ…」
館の玄関前に腰を下ろし、夕日を見ながら二人が呟く。
その様子をスゥは眺めていた。
強い。
この二人は強い。
マスターの意思を汲み取り、それから術式を演算する魔者というのは多かれ少なかれ術式を発動するにはタイムロスが存在する。それを極力無くした万能型が汎用精霊なのだが―――この二人の魔術式発動速度はそれに匹敵する。
完全なコンビネーションが出来上がっているのだ。
それは言葉を発さずとも、その身振り手振りだけで何をしようとしているのかが理解出来る者達の関係。これほど相応しい最高の関係があるだろうか?
二人は恋人という関係ではない。ヒトと魔者の前提は協力。それをある一点から見るならば主従だ。
ヒトは魔者が居なければ高い威力を誇る魔術式を扱えない。魔者はヒトが居なければ魔力を扱う事が出来ず魔術式を発動する事が出来ない。
そんな相互理解が求められる関係において、二人はほぼ完璧と言えるだろう。
その二人の“輪”に、自分が入っても良いのだろうか?
そう、二人を見ると考えてしまう。
「さて、と…」
「行くのか…?」
「報告はせにゃならんだろう…?」
と、夕日を眺めていたクラウンが立ち上がり、その橙色に輝く光を受けながら隣に腰掛けるヤヨイへと告げる。
これから――この被害に遭い、生き残った者達へと事件が終結した事を話しに行くのだろう。
そして、託された思いを家族へと伝えるのだ。
ある者は生きてる事を謳歌するように笑い合い、そしてある者は家族を失った事に現実を突きつけられ悲愴の表情を見せる。そんな場所に、行かなければならない。
家族を失う、その感覚。
きっと悲しいのだろう、恐ろしいのだろう。何時もそこに在った現実が、突如崩壊する感覚が。
それは―――自分も同じだった。
自分は直接的に関与していない。
しかし、だ。通常の召喚の儀式の様に、魔者側が相手を選定するのではなく、魔剣という圧倒的な力によって強制的にエデンから引き摺り出された。それは第三者によっていきなり日常を奪われる理不尽な感覚だ。そして召喚された先で待っていたのは、自分を喚ぶ事に失敗した事によって地獄になった世界と、変貌して自分を喰らおうとした魔人の姿。こんな理不尽は早々無いだろう。
自分は誰の命も奪ってはいない。
いないが…それでも、この世界は確かに現実だった。
「………」
顔を伏せる。
今までこの状況に耐えられたのは、この二人が居てくれたからだ。
飄々として目付きが悪い、しかし優しげに頭を撫でてくれる男。
表情の変化に乏しい美貌を持ち、しかしその実、決して冷たくは無い魔者。
この二人が気を遣っていてくれたのか、場の空気を保っていてくれたから、自分は泣き出さずに済んだ。
しかし、駄目だった。
この日が暮れる世界で、賑やかさの未だ戻らぬ世界は否応無しに自分に孤独を突きつける。
ここに自分を生み出した精霊の母は居ない。
知り合いも居ない。
何も、無い。
「……ぁ…」
嗚咽が漏れる。
涙が零れる。
肩を震わせ、この現実に慣れるしかない。
自分はどんな経緯があれ、下位世界に降り、そして契約を結んだのだ。
目付きの悪い青年は、きっと自分が契約を破棄して帰りたいと言えば、送還の為の施設を借りて自分をエデンへと還してくれるだろう。
だけど、自分は何一つ恩を返す事も出来ずに。
魔者の誓いである『契約した者を守護する』という前提すらも果たせずに。
その葛藤が嫌だった。
帰りたい。でも、帰りたくない。
誓約を果たす。そればヒトと魔者の関係だ。
自分は誓ったのだ。このヒトに力を扱う権利を与える―――つまり、私は貴方を護る為に力を使う、と。
誇りを穢す、そういう行い。
母の顔は見たい。だけど、何一つ返す事無く帰るのは許せない。
だけど、
だけど、寂しいのだ。
―――すっ…
「…ぇっ…?」
抱きしめられる感触。
顔が柔らかな胸に埋められ、そっと優しく頭を撫でられる。
歪む視界を上へと向ければ、そこには薄く、しかし優しく微笑むヤヨイの顔があった。
「悲しいか…?」
「……は、ぃ…」
ヤヨイは「そうか」と頷き、薄暗くなり始めた空を見上げる。
「理不尽じゃったろう…?」
こくりと、小さく頷く。
「そうじゃな…突然召喚され、命を狙われ、契約を迫られて契約する…理不尽じゃったな…」
「…はい…」
「悲しかったか?」
「…はい」
「寂しかったか?」
「……ぅ、ぅ…」
「ふふ…そうか…」
そして、再びヤヨイはスゥの頭を優しく撫で続ける。
魔者としては同じ精霊という枠に入るのだろうが、属性は全く違う。
何もかもが違うのに、そのヤヨイの優しさは温かかった。心地よかった。本当に、母に抱き締められている様に、優しかった。
「帰りたいか…?」
どうなのだろう。
自分は帰りたいのだろうか?
母には会いたい。
しかし、帰るのとはまた別では無いのだろうか?
「クラウンも、妾も、無理に引き止める様な真似はせん。こちらに残ったとしても、クラウンは戦いを強制する様な真似は一切せんじゃろう」
「そうだな。普段は薬屋稼業が本業だ。戦いなんて、依頼とか…後は、まぁ、ちょっと金銭面が赤字になったら位しかないし…?」
「普段は妾も、薬屋で売り子をするか、近くの孤児院で子供の面倒を見る位しかしておらん。戦えるのは、それだけ長い時間を共に過ごしておるからじゃよ…」
まぁ、薬屋を建てるまでは結構無茶したんじゃがのぅ? とヤヨイは小さく笑う。
「じゃから、無理はせんでもよい。やりたいように、やればよい。帰りたいのなら、妾とクラウンが近いうちに必ず還してやる。だから、好きに選べばよい…」
その言葉は甘美で、縋ってしまいそうになる程に優しい。
本当に、その言葉を信用すれば帰る事が出来るのだろう。
だけど、とスゥは考えた。
それで本当に良いのだろうか?
きっとクラウンもヤヨイも、スゥが帰る事に対して恨み言も云わずにやってくれるだろう。
自分はその好意の上で胡坐をかいて座っているだけで、本当に良いのだろうか?
違う気がする。
何かが違う気がする。
「…わ、私は…」
何時か、何時か母の様になれるだろうか?
そして、今自分を抱き締めてくれているヤヨイの様に、そんな存在になる事が出来るのだろうか?
帰りたい感情と、誇りを気にする感情とは別。
―――夢。
失った時間が在る。
理不尽にも奪われた時間が。
奪われた環境が在る。
母と歩むエデンの雪の大地を。
感じた恐怖が在る。
理不尽に食い殺される絶対の恐怖を。
だけど、見たい夢がある。
黒い衣を纏った青年と、この表情の薄い優しい精霊と暮らす夢を。
そして、自分も何時か、今自分を抱き締めてくれる精霊の様になるという、今は小さな夢。
それを一瞬だが、幻視してしまった。
「何、まだ答えは出さんでも良いよ」
ぽんぽん、とヤヨイが最後にスゥの頭を撫でながら離れる。
ぁ、と小さく声が出て、恥ずかしくなって口を覆う。
「取り敢えずは行こうか。痛々しい場面を見る事になるかもしれないが…それでも、託された言葉もあるし、誰だって理不尽を抱いてでも前に進まなきゃならん事もあるし、な…」
「背中を押してやるのも、言葉を託された者の務めかの?」
「そうだな…」
クラウンが苦笑し、歩み出す。
ヤヨイも薄く微笑むと、その後姿に続いて歩き出した。
その二人の背中を呆と見る。
私は、何がしたいのだろう。
エデンの中だけでは分からなかった事がここにはある。
母と別たれたのは痛い事だ。だけど、
と、そこまで考えていると、二人が動かないスゥに気付いて振り返る。
「おーい、どした?」
「置いて行くぞ、スゥ」
「―――あぁ…」
二人は、本当に何でもない様に言った。
もう、自分達は知り合いで、“仲間”だと言わんばかりに…普通に、二人は自分を呼んでいた。
―――無性に、笑いたくなった。
そして、こちらに居たいと、そう思えた。
言おう、二人に。私は私の責務を果たすと。
力を与える誓約を破棄せず、護り、そして“護って貰う”為に、この世界に止まると。
「い、今行くわよっ」
「こけるなよ?」
「急がなくてもよいぞ?」
「私は雪の精霊だっ!」
ねぇ? お母さん。
私は、自分で歩んでみたい路を見つけてしまいました。
だから、少し帰るのが遅くなってしまうかもしれません。
だけど、怒らないで下さい。
私は、きっと立派になって帰りますから。
だから、少しの間、お別れです。
突然の理不尽に奪われた幸福がある。
先に進めなくなる時がある。
受け入れろとは言わない。
理解しろとは言わない。
只、その事は覚えておかなければならない。
この世界の法則を。
前に進めるか、それとも進めないか、それは知らない。
進むのも、進まないのも、どれもが正解で、どれもが間違っているのだろう。
だけど、きっと、進まなければ見れない物がある。
だから、世界を理解し、そして歩こう。
少しずつで良いから。
「さて、行くか」
「ああ、そうじゃな」
「うん、行きましょ」
このブルースフィアと名付けられた、決して楽園ではない世界を。
歩いて行こう。
epilogue-end
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