必要なのはお互いだった
それは姉妹も、そして
青年と少女も同じだった

それは、青年と少女の物語




















――― To the children of an INHERITANCE - 遺産の子達へ ―――
――― Stage-4 A miracle is offered you−奇跡の花束を君に捧ぐ ―――





























#6 朽ちない思い



































――→Valhalla






目を覚ませば、そこは丘だった

大地が続かない、連続した浮遊島
最も天に近き世界
清涼な風が吹きぬけ、自分が居る浮遊島の若草が風に舞って飛ぶ
その光景を見ながら、自分の状況を理解した

「ああ…死んだんだっけ、俺…」

何の感慨も無い
ただ虚しさだけが残る幕切れだ
そう云えば―――俺は何を護ろうとしていたのか?

「……誰か――居た?」

轟、と―― 一際風が強く吹く
それに一瞬だけ目を瞑り、再び目を開けた

「や、久し振り」
「緋菜菊師匠…?」

そこには、一輪の花を持った――懐かしき故人が立っていた









――→Heaven











そこはただ暗かった
闇の帳が下りた、昼の在る世界とは違う
そこは深遠にして深淵
闇しか存在しない場所
そう――ここは…

――死者の路

だが、何故だろうか?
不思議と恐怖は感じる事が無かった

「不思議な暗さですね…暗いのに、決して冷たくは無い…」

ここは“死”という根源に戻る為の路だ
確かに、死へ至るという恐怖は在る
しかしそれ以上に――生命の原初たる世界は暖かなのだ

そして、やがて光が辺りを包み、景色を一変させる

「――――っ…」

暖かな春の日差し
耳に届くのは小鳥達の囀り
栞は、翳していた手をゆっくりとどけてみた
そこに広がるのは―――

一面に広がる花畑
そしてその世界を別ける様にして流れる川
川の向こう側に見える、うっすらと広がる緑の大地

「あぁ…そうですか…私…やっぱり死んだんですね…」

漠然としていたのが、確りと認識出来た
川に流れるのは水では無く知識
不可視な筈の知識を眺める事により、自分が現在どういった状態なのかが手に取る様に解る

「…手術中の心停止ですか…割と呆気無い物ですね…もう少し少女然とした死に方に憧れます…」

そして一つだけ、栞はクスリと笑うと、素足を川へと差し込んだ
流れ、という抵抗を一切感じない
それも当然か、これは水ではなく知識
星の歴史――宇宙の記憶――アカシックレコードの一端
元々同じ構成物質であるのだ、それを抵抗に感じる筈が無い
身体をすり抜けていく歴史を感じながら、栞は川を渡る

そして丁度川の中腹まで来た時だろうか…
栞は後ろ――現世側に気配を感じ振り返った

「こんにちは、栞」

そこには、一輪の花を持った自分の姉が立っていた









――→Valhalla











「師匠―――」

そう云って、祐一は目の前に立つ人物――師・緋菜菊を見る
齢、約百五十で死去した筈の剣の師
その姿は死ぬ間際まで己の魔力で身体を二十前後歳で留めていた
背中には幻想遺産――魔剣・犯し尽くす業火の竜(レーヴァテイン)
そして――自然な白髪と、何処までも澄み渡る黒き瞳を携え、死に目に立ち会った際の、何処までも美しい変わらぬ姿のままにこの場に存在している

「久しいね、祐一」
「何で、師匠が――」
「ん? あぁ…ここはヴァルハラ…“戦死者の館”と呼ばれる世界だからさ」
「ヴァルハラ?」
「天国とも地獄とも違う。生前に名のある“戦士”は、全てこの場所に来る事になるのさ。だから私――元世界五指(ロード・オブ・ロード)・【 死天剣(ヘヴンスラッシャー) 】緋菜菊は、この“世界”に存在している。だから祐一、お前もここに居る。【 血染めの魔王(クリムゾン・イーブルロード) 】とも【 鮮血姫(ブラッディプリンセス) 】とも呼ばれ、そして―――」
「師匠…」
「…そうだね、済まない。余り触れてはいけない事だったね」

ふっと、緋菜菊は苦笑いを向けると、祐一に向けて微笑んだ
その表情に、全てがフラッシュバックしそうになり、慌てて言葉を紡ぐ

「―――それで師匠。師匠が俺の死後の案内人なんですよね? それだったら早く―――」
「違う。私は案内人などではない」
「―――え?」

その言葉に、再び思考が停止に追い込まれる
何故?ここは死んだ“戦士”が集う世界の筈。それならば、自分は死に、ここに存在している筈だ
その疑問を抱いて、祐一は眼前の師に、答えを求める

「不思議そうだね。そうだな――率直に告げよう。祐一、お前は――まだ死んでない」

「――――は?」

疑問が口をついて出てしまう
それを建て直し、祐一は急いで口を開いた

「な…どういう事ですか。ここは戦士が来る死後の世界。だから俺は死んで、今ここに存在しているんじゃ…」
「ああ、確かに死んでいる。それは身体ではなく、心だがな」
「それは―――」

それはどういう、そう言葉を告げようとして、頭にノイズが走った
それは記憶
死に瀕する際に見た、誰かの呆気に取られた顔
それは―――

「お前には今、選択権が与えられている。それは私の手を取り、そのままここで暮らすか…それとも、その身をこの浮き島から投げ出し、現世に帰るか、だ」

そんな答え、初めから決まっている
答えは―――

「良いのか、祐一?」
「はい、構いません」

その手を握り、師と共に暮らす事だ
故郷で見続けたのは人の真理――残酷の可能性
そんな物を、これから先も体験して行くというならば、帰らない方が幸せだ
伸ばす手の先には師匠であり、義母であってくれた人物
あの色を無くした地獄で、一番最初に自分の可能性を見出し、育み、愛してくれた人
その人と、この地で暮らせるならば何と幸せな事だろうか?

―――緋菜菊の持つ一輪の花が、凛と揺れる

そう、幸せな筈だ
幸せな筈なのに、何で―――

「手を取らないのか祐一?」

何で、その手を握る事を躊躇っているのか?

その、震える手が訴えるのは記憶
この手に残る、誰かの温もり
残酷な世界で見つけた、生きる事への意義
自分を信じ、着いて来ている誰かの思い出

それは大切な人
それは美しい人
それは、愛しい人

誰だ?
俺の心を惑わすのは誰だ?
思い出せ
思い出すな
思い出せ、それは―――雪が似合う、銀髪の――
思い出すな、それは世界へとお前を縛る可能性

思い出せ思い出すな思い出せ思い出すな思い出せ思い出せ思い出せ思い出すな思い出すな思い出すな思い出すな思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出すな思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出すな思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出す―思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出――思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い―――思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思――――思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ―――――思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い―――――――――――





























銀の髪を揺らして、彼女は笑った
私は、この世界に出られて幸せだ―――と
自分の黒いコートを着て、微笑んでみせる彼女は、この世界の何よりも美しいと感じた
何者よりも愛しいと感じた
そう、彼女は―――――――































すっ、と差し出していた手を引く
そして、祐一は苦笑をその顔に浮かべると、目の前に佇んでいる師に微笑んでみせた

「それが、お前の答えだな。祐一」

声を出さず――
声を出せず、涙で霞む視界を拭う事も無く、祐一は頷いた
知っている、これが、絶対的に別れの決断だという事を

「全く…本当にお前は素直じゃないな…一時は本当にこっちにきてしまうのだとヒヤヒヤしたが…」

そして緋菜菊は笑う
嬉しそうに笑う
それを見て、祐一は初めて流れていた涙を拭うと、その震えそうな口を開く

「でも、師匠…」
「うん、なんだい祐一」

静かに呟いた言葉に、緋菜菊は優しく聞き返す

「俺は…剣を失った俺は…護れるんでしょうか?」

その祐一の言葉に、緋菜菊を小さく笑うと、こちらにゆっくりと歩み寄ってきた
風が吹く、優しくだが、何処までも激しい風
それが吹き抜ける時、緋菜菊は祐一の目の前に立っていた

「祐一」
「はい…」
「知ってるよ祐一。私は誰よりもお前を知っている。無愛想なくせに、事実、お前は甘えたがりなんだ。私はな祐一、昔のお前を――流される儘に従って、ただ生きていたお前を窘めこそすれ、今のお前を否定する気なんかこれっぽっちも持ち合わせてなんかいない。それは確かに剣を捨てたお前は身体的に弱くなったかもしれない。それでも、それでもだ祐一…お前はあの頃の様な儚い物は無くなった。お前は確りと相沢祐一になったんだ。だから大丈夫。幾つか危機を乗り越える事になるだろうけど。私の目の前に立つ相沢祐一はきっと、大切な誰かを護り通す事が出来る」

そう云って、彼女は美しく微笑む
それは母という存在が見せる笑み
誰かを見守る笑み

緋菜菊は自分よりも背が高くなった自分の弟子を見上げる
そこには、泣き笑いの笑顔

「あの頃は、私よりも背が低かったのにね。大きくなったね、祐一は…」
「俺は…師匠が亡くなってからが成長期でしたから…」

祐一は笑いながら緋菜菊に云った
師――いや、義母はそれに笑顔を返すと、祐一の頭をその胸に抱き寄せた

「懐かしいね…あの頃は、無愛想な祐一を無理矢理抱きしめてたのにね」

そして、くすりと微笑む

「一緒に風呂にも入ったし、一緒の布団で寝たりもした。それと同時に殺す様な修行だって行った。そのどれもが懐かしい思い出―――」

頬を伝う涙が、緋菜菊の着物に染み込む
抱き寄せられたのは、一分にも満たない時間
それで終わり
緋菜菊は微笑みながら、その身を一歩後ろに引く
祐一も既に泣いていない
祐一は、師の笑顔を見るとその身を翻し、浮かぶ島の端へと歩き始めた

「ありがとう、師匠。俺、師匠に逢えて、本当に良かった」

呟く言葉は風に乗り、自分にしか届かないまま消え逝く
祐一は後悔も何も無く、勢い良くその身を空へ投げ出した
そこに残るのは緋菜菊一人
その祐一の姿を見届けた女性は、手に持つ花を、幻想の太陽に翳す

「よく育ってくれた祐一。私はだれよりもお前を誇りに思う―――それと―――」

言葉は言葉に成る事無く消えた
その姿は、初めから無かった様に消え失せ、粒子すらなく、余韻すら残さず消えた
重力に引かれて落ちるのは一輪の花
薄紅色をした一輪の花




―――私は何時までもお前の味方だ―――









――→Heaven











川の中ほどで振り返った栞は、此方側の岸に存在している人影を確認する
その姿は自身の姉
こんな場所には居るはずの無い人物が、その場所には立っていた

「どう、して…お姉ちゃんが、ここに…」

そう小さく呟き、栞は川の中で身体の向きを反転させる
その光景を見届けてか、『香里』はにこりと笑ってから、その口を開いた

「こんにちは、栞」

何でもない様に、極々自然に『香里』は云う
その異常性
この場所に、自身の姉が存在しているだけで、今まで隠れていた死に対する悪寒が表面化する
その恐怖は失うという事
自分が死ぬという事に対して、少女の姉が死を共にするという恐怖
それを知ってか知らずか、『香里』は少し困った顔をして笑う

「な、何が可笑しいんですかっ」
「御免なさいね栞。貴女が『香里』の事で真剣に悩んでる光景が本当に微笑ましくて」

その言葉を聞いた瞬間に、身体に走っていた緊張が弛緩するのが理解出来た
此方側の岸に存在する少女は、自分の事を香里と呼んだ
それはおかしい、少女の姉は自分を名で示す様な事はしない人間だ
それならば、此岸に存在する彼女は―――

「誰ですか? という表情をしているわね」
「え?」

何で考えている事が―――

「分かるかって? そうね、ちゃんと説明してあげるから―――って、こらこら…そんな怖い顔して睨まないの」

やれやれといった感じで、『香里』は笑う
その顔を見て、少しでも見惚れてしまった栞は、頬を膨らませて無言の抗議を行った
しかし、完全に見透かされているのか、『香里』はただ「ありがとう」と一言だけ呟いて、またもや綺麗にに笑った

「はぁ…」

小さく溜息を吐き出す
どうやら自分では、この目の前に立っている存在には勝てない様だ
そう心の中で簡潔に答えを出すと、栞は改めて『香里』に向き直った

「さて、これでやっと話が出来る程には落ち着けたわね」

栞が諦めたのを見て、『香里』は口を開いた

「先に確認しておくけど、栞はここが何処か理解してる?」
「何となくですが…ここは【 三途の川(アケロン) 】じゃないんですか?」
「そう、正解。貴女が渡ろうとしている川はアケロン。向こう側は冥府へと繋がっているわ」

何処か遠い目をして、『香里』は彼方側の岸を見た
それも一瞬
直ぐにもとの表情へと戻る

「それで―――今貴女が一番知りたい事…『私』について話しましょうか? それにしても変よね。自分が死ぬという事を置いて、他人の事を心配するんだから」
「そんな事はどうでもいいんです。それよりも貴女の正体を教えてくださいっ…!」
「やれやれ。せっかちな娘ね。そんなんじゃ、好きな人が出来ても簡単に絆なんか切れちゃうわよ?」
「天から地まで大きなお節介ですっ!!」
「はいはい、怒らないの。可愛い顔が台無しよ?」
「誰のせいで…」
「栞のせいかしら?」
「な、何で私のせいになるんですか!そもそも―――」
「ストップ」
「―――え?」

ピタリと音がしそうな程に、その言葉で空間が止まる
勿論それは錯覚だ、川も流れているし、空気だって流動している
しかし、その声によって、確実に何かが停止した

「さて、私は今、答えを云いました。さて、なんと云ったでしょうか?」
「え、えぅ…」

そんな事云われても、どうしろと云うのか
何かが停滞した空間で、栞は頭を働かせる
彼女が云っていた事――意見を云う事に熱くなっていた為、良くは思い出せないが
それを最初から再生しなおす
そして―――気付く

先程から纏わり付いていた、奇妙な違和感。その正体に

冷える思考、冷静になって言葉を思い出す
『誰のせいで』、その言葉の後に続いたのはどんな言葉だったか
そもそも、この空間は生者が存在出来る様には作られていないのだ
それならば、今も確かに生きている筈の香里が栞の眼前に存在している筈は無い
故にそれは

「もしかして、私――…なんですか?」

黄泉路の川の中から呟く栞
聞こえるかどうかも分からない小さな声にも、『香里の外見をした栞』は嬉しそうに肯いた

「そういう事…私は栞。貴女が望む理想の栞」

そう――だから栞の外見は姉の外見をしている
それは香里が栞の望む外見を持っているから
だから、この場に立つ栞は、夢幻を具現した姿で存在しているのだ

「理由は、解りました。確かに私はお姉ちゃんに憧れています。“可愛い”ではなく、綺麗なお姉ちゃんに」
「そう、だから私は『栞』という存在の理想、所詮は夢だけの存在。もしかしたら成長した貴女はこの外見に似るのかもしれないけど、私は貴女を構成する内世界の情報を見れる訳ではない」

そう云って『栞』は笑う
綺麗な笑い方だ
それに栞は目を細めながら、今の自分を省みる

私は――あんな綺麗に笑っていられるのだろうか
いや…そもそも私は、あんなに綺麗になんか笑えない存在だ
笑った処で意味は無い
今から死に逝く存在が綺麗に微笑んだところで、そこに意味は無いし亡い

だから―――

「貴女は潔く死ぬの? …栞」

『栞』が云う。その言葉を
死にたくなんか無い
そんなのは当然な事だ
それに、相手は『栞』なのだ
栞という存在が内包する答えだって持ち合わせている筈
しかし、それでも声に出し、相手は問い質したのだ
『潔く死ぬか』―――生きていたいか、と
それならば、こちらも答えなければならないだろう
声に出し、ありのままの自分の答えを

だが、それは―――

「やはり、云えない?」

『栞』の言葉に、栞は俯き頷く
確かに自分は生きていたい
だが、本当に…

自分という存在は、生きていいのだろうか?

と、そう悩む

「何を悩むの、貴女は?」
「私は…」

単純だ、悩むような複雑な答えではない
ただ単に、私が現世に帰った処で家族のお荷物になるのが嫌なのだ
長い間苦労を掛けて生きて来た
この時代で多少は裕福な方に分類はされるだろう家庭で、発病してから、家族の財を削って生きて来たのだ
やりたい事もあっただろう
行きたい場所もあっただろう
そのどれもこれをも、自分という存在が食い散らかして生きて来たのだ
縛られていたのは誰か?
自分? それとも家族?
答えは簡単――家族。そう私という存在は答える
縛られていたのは家族
自分という病人の為に、それぞれを削っていたのは家族なのだ
だから、自分は、自分の意思で此方側に足を戻すか、それとも犠牲心で彼方側に足を戻すかを躊躇っている

愚か…

何て半端者だ
私は自分の意思で生きる事も死ぬ事も選べずに、この川に突っ立っているのだ
認めよう、確かに悩んでいる
どうしようもない位に悩んでいる

ああ、成る程…

先ほど何故悩んでいるのか聞かれた意味が理解出来た
先ほどは躊躇い無く死ぬ事を選んでいたので、悩んでいるという意味を「死ぬ理由」に履き違えていた
違う、そうじゃない。本当の意味は――何故私は生きるか死ぬかを、躊躇っているかだ

「理解した?」
「えぇ…確かに私は悩んでいますね…今気付きましたよ」

確りした口調で、栞は声を出した
先ほどの様な弱い呟きではない、ちゃんと届く声色で

「そうね、私という存在は悩んでる。生きるべきか死ぬべきか、自分の意思を尊重するべきか他人の幸せを尊重するべきか…。だけどね栞、それは本当に正しいの?」

『栞』の言葉に、その手に持つ薄紅色の花が凛――と揺れた

「え…それはどういう…」
「栞…貴女のその悩みは誰の物?」
「そ、そんなの私の―――」
「そうね、貴女の物よ。そう、貴女だけのね?」
「―――え?」

何か、決定的な何かが“開いた”
栞は痛くも無い胸に手を当て、ぎゅっと強く、抱くように手を握る
その顔には動揺、表情には現れない動揺が浮かんでいた

「貴女は誰かに答えを訊いたの? 訊いてない筈よ。『私』はそんなに強くない。誰かに自分という存在の価値を量って貰えるほど、『私』は強くなんてないのだから。だから、貴女は答えを求める以前に、問題を間違っている。どんな問題も文章が間違っていれば答えが出せない様に、貴女は決定的に問題を履き違えているのよ」

「だけどっ…」
「だけど、何? 貴女は自分が心配されてないと思ってるの? それは高慢よ、栞。貴女はちゃんと愛されている。それだけはちゃんと理解している筈よ」

知ってる
そんなの解りすぎる程に解っている
皆笑顔だ、会う人皆が笑顔だった
顔に貼り付けただけの笑顔、取り繕う為の笑顔
そんな中で、お父さんとお母さん、それにお姉ちゃん、嫌な顔一つせずに看護してくれる一人の少女だけは―――真実だった…

苦しい、本当に苦しい
川底に手を付いて、その中に栞はしゃがみ込む
川の中で、息が出来ない苦しさを感じる
いや、違った。この川は情報、ならば苦しい筈なんてないのだ。そう苦しいのは―――

「く、うぅ…あぁ…私、泣いて…」

情報という水の中で、栞は頬を伝う涙を拭う
いつの間にか流れてた涙を拭っていた

「栞…そんな貴女が死んだら、どうなるの?」

そんな事―――

自分が死ねば、負担が減る

―――違う

自分が死ねば、皆は自分の時間が出来る

―――違うっ

自分が死ねば、きっと家族は、『栞』の事を忘れて幸せに―――

―――違うっ!!

それは違う、間違っている

あぁ、確かに間違っていた
やはり愚か、こんな事にすら気付かなかった
自分が死んで、家族が幸せに至るまでに何を経験するか、それを考えていなかった

経験するのは絶望、虚無感、喪失感―――死に嘆き、心に罅を入れ、無くした日常を体感する

その上に、長い時間を掛けて忘れる事も無く、欠けた心は埋める事も出来ず、罅だけを塞ぐのだ

それは何て恐ろしい事か
彼らは確かに傷を負う
絶叫で切り開け、慟哭で深める傷痕を

愕然とした
栞は一層強く身を抱き、溢れる涙をただ堪える
それは冒涜だから
自分を愛してくれた人達を疑った、その意識だから
泣く事は許されないのだ
無くのならば―――

「泣くんなら、家族の胸で泣きなさい、栞」

そう、その通りだ
だから栞は立ち上がる
立って此岸まで歩くのだ
この選択肢さえも間違っているかもしれない
しかし、それでも…自分という、美坂栞という存在は、家族の安堵した表情が見たいのだ
一歩一歩、ゆっくりと川を戻って行く
感じなかった川の流れを感じ、感じなかった水流の抵抗にあいながらも、確かに歩を進めて行く

先に在るのは、香里の顔をした栞――いや、真実姉の姿

それを求め、何度崩れそうになりながらも、栞は歩いた
死ぬという必要は無かったのだ
必要なのは笑顔。皆が笑っていられる笑顔
だから帰ればいい
家族が待つ、その場所へ

「っふ、ぅ…」

そして、此岸へと足を掛けた
栞は俯かせていた顔を上げ、目の前の存在に目を向ける
そこにあるのは笑顔、姉の笑顔

「おかえりなさい―――栞…」

その言葉を聞いて、栞は脱力した
意識は、ただゆっくりと、睡眠を求める…











to next…

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