「くっ…精神がヤバイ…」
額に滲む汗を拭い、祐一が呟く。
横には冬華の寝顔。別に衣服が引き裂かれている訳でもなく、律儀に祐一が今まで着ていた術式防御装甲のコートが着せられている。
どれだけの病的な理性が必要になるか、それは祐一にしか分からない。
しかし、それが並大抵の事で無いのは事実であろう。
額の汗の量と、赤を通り越して逆に血の気が引き始めた祐一の顔を見れば窺い知る事が出来る。
祐一は内心でよく頑張ったと、脳内祐一1号が2号や3号から肩を叩かれて拍手を送られている光景を幻視していた。
盛大に息を吐き出し、空を見上げてみれば星の輝きが薄い事を知る。
漆黒の空は、今や黎明を迎えようとしていた。
ハァハァ、とヤバイ息が収まってゆく。
朝の清涼な空気と、美しい色合いの空が気分を鎮めてくれるのだろう。
そんな考えていると、小さな気配が向かってくるのを感知する。
「いやー、まいったよー」
「ん?」
昂ぶった心を一心に静める祐一の耳に、聞きなれた猫の声が届く。
冬華の裸を見た罪で、夜の闇の中に投擲して以来の邂逅だ。
戻ってきたのか、と祐一が振り向くが…
「………」
顔を引き攣らせて歩いてくる猫は、顔面を幾らか腫らせ、足取りも危うい。投げた方向が悪かっただろうか、と考えるが――プルートーの後ろを機嫌悪くついてくるリリスの顔を見て察した。
「ああ、何だ、夫婦喧嘩か」
冬華の裸を見て顔をニヤつかせた罰だろう。
リリスから相応の折檻を受けたのだ。
愛だな、愛。
勝手に納得すると、祐一はその場に腰を下ろした。
「あら、冬ちゃん寝ちゃったの?」
「ああ。今日は随分本格的に戦ってたからな…疲れたんだと思う」
ちらりと背後に視線を向ければ、すぴすぴと寝息を立てる冬華が居る。その顔は所々血で汚れているが、その下地、肌は既に祐一が治療を施している。残る様な深い傷跡も無く、大事に至る物は無い。
命に別状は無いという現状に安堵の溜息を吐き出して、祐一は視線をプルートーに向けた。
「さて、これからどうするの? 祐一」
「まぁ、そうだな…その前に―――」
祐一が視線を細め、プルートーを見据えた。
訊いておかなければならない事がある。
今後の方針を決める為に必要な事が。
プルートーは何故祐一がそんな険しい視線を向けるのか分からずたじろぐ。が、気にはしない。
「プルートー」
「え、あ、何?」
「真白か竜、どちらかを召喚してくれ。少し訊きたい事がある」
鬼、ムラマサは駄目だ。血の気が多すぎる。
呼び出した代償に戦闘行為を求められでもしたら、今の状態では死んでしまう。
「?、いいけど…」
訝しそうに呟いて、プルートーが精神を研ぎ澄ます。
内面世界に精神を向け、そこから取り入れた存在を招きだすのだ。
自分と他人を分け隔てる壁を取り除き、外側へ向けて道を確保。
望んだ相手を現世へと取り出す。
「真白、出て」
たったそれだけの言葉に反応して、プルートーの身体から淡い燐光が漏れた。
飛び散った光はやがて人の型を取って、その姿を顕現させる。
片膝をついた状態で、ドレスを纏う雪の姫が姿を現した。
「何か?」
「ん、何だか祐一が訊きたい事があるって…」
「相沢祐一が…?」
紅い瞳が横に揺れ、その中にあぐらをかいて座る祐一を収める。
祐一は紅い瞳に、己の瞳の焦点を合わせた。
空気が張り詰めている。
真白には意味が理解できなかった。
いや、この中で、今現在の張り詰めた空気を理解出来るのは、質問しようとしている祐一だけに他ならないだろう。
この質問で、その先全てが決するのだ。
緊張しても、それは当然の事だ。
真白の瞳を見つめていた祐一がゆっくりと口を開く。
「少し訊きたいんだが…良いか?」
「構わない。私と主従の関係を結んだのは旦那様だけだけど、私を好きにしても構わないと約束したのは貴方だけ。訊きたい事があるなら訊いて頂戴」
「フフ…そうか…」
相変わらずの律儀さに僅かな苦笑を漏らし、
再び祐一は視線を細める。
「一つ訊こう。魔王は―――確かに死んだのか?」
「…何故、そんな事を?」
そう返事を返す真白の表情を祐一は読み取る。
そこに虚偽は無い、ように見える。
本当にどうしてそんな質問をするのか分からない、といった表情だ。
「シャイグレイスで、真理の一片に到達した男が語っていた。近々、歴史の幕切れが起こる、とな」
「ラグナロクが…? それ、初耳なんだけど、祐一」
「言えなかった、というよりは、敢えて言わなかった…って言う方が適切だ。俺自身半信半疑だったからな…俺自身が魔剣から引き出せた訳でも…」
「魔剣…?」
「いや、何でもない…それで、どうだ? 魔王は結局死んだのか?」
そこで少しだけ真白は思案した様な顔になり、しかし虚偽無き、祐一という自分を斃した存在に敬意を払う様に真剣な光を瞳に宿してから口を開く。
「私が直接見届けた訳では無いけど、確かに死んだ、と報告は受けているわ」
「情報の真偽は?」
「確かだと思う。私の配下に置いていた隠密重視の者が言ってたから…魔王様の死体はズタズタだったそうよ…天使も―――」
そこで真白は一瞬だけ眠る冬華に視線を移し、
「戦場に出た約百人の中でも、生き残ったのは二、三人で、死体は森林地帯や海上、様々な所に墜落したそうだから…」
魔王様共々、生きてないでしょうね。
真白の言葉を聞き終わり、祐一は考える。
魔王は死んだ。
ならばどういう事だ?
脅威は確かに死んだのだ。それならば、復活する事は無いだろう。だったら何が今の時代を滅ぼす?
そこで一つの事を思い出す。
約二千年前、その時は魔王と天使が戦った事による余波で世界が崩壊し、人口と情報形態に著しい変化が訪れた。それは文化レベルの低下を呼び、結果、二千年前よりも下の文化レベルで生活を送っている。
だったらその前はどうなんだろうか? 二千年前は確かに魔王と天使の戦いで世界が終焉を迎えた。だったらそれ以前の崩壊期はどうやって訪れた? 何が崩壊を呼び込んだ? 魔王か? しかし、冬華が居た施設では過去の世界に魔物が存在しなかったという話を聞いている。
だったら“何”が世界を滅ぼした?
「…いや、待て…滅ぼした?」
冬華の施設で見聞きした資料では、遥か過去の歴史が残っていた筈だ。そう、“紀元前”という呼び名で。だったら余計話は混乱する。何時世界は滅び去った? 冬華から詳しい話は聞いていないが、人間の居なかった時代が確かに存在し、そこから進化を繰り返す事により人間が世界に溢れたという話を聞いたことがある。だったら何時崩壊の時が訪れたのか?
魔剣が引き出せる情報―――詳しい事は解っていないが、レヴァルスが言う分には『人という種族が重ねた知識は役立つ』という言葉と、『ちっぽけな生命の器では知られぬ事ではあるが、六度も滅びを繰り返しているのだよ』という言葉より、人の生きていた時代だけに起因している事が窺い知る事が出来る。
だったら、何時、世界は滅びた?
人が重ねた知識の中で、六度世界は滅びているらしい。
だったら、何故、冬華の時代には人間が居なかった時代の記録がある?
「分からない…」
正規の歴史の上を黒く塗りたくったような違和感。
まるでそれは…神が歴史を改竄した様な―――
「馬鹿らしい…」
考え付いた黒幕を、頭を振る事で忘れる。
しかしそれは、祐一の頭の隅に嫌な予感を残したまま残滓として停滞を続ける結果となった。
何が理由か未だ分かる事は無いが、暫定してしまうのは拙い。
もう一度だけ頭を振ると、祐一は思考のために伏せていた顔を上げる。
「何か分かった事でもあるの?」
「全く。さっぱり」
本当に訳が分からない。
「そう…」
「ま、今の話の結果としては…」
「結果としては?」
「頑張れよ二代目魔王っ」
ぽんっ、とその黒い体躯に手を乗せて言い放つ。
はっ? という顔から、だらだらと嫌な汗を流す表情に急降下。もし地肌が覗けるのなら、プルートーは今、嫌な位に蒼白している事だろう。
「ははっ、は…そんな、ねぇ?」
「魔の四将の内、三将を仲間に引き込んだんだぞ? 現代の魔物の中では、はっきり言ってそいつらを顎で使えるお前が最強になったと思うが?」
「じょ、冗談は止めようよ、祐一ぃ…」
そんな馬鹿な、とプルートーは視線を横に立つ真白へと向ければ思案がある。
やがて一つ頷くと、そうだな、と声を上げた。
「それもいいかもしれないわね…」
「ひいっ!?」
「…別に旦那様に率先して戦ってもらうとか、そんな事は考えてません。そんなに怯えないで下さい…」
「う、うう…ストレス性胃潰瘍が…」
憐れなくらいにプルートーが参っている。
面白いので手助けはしないが。
「相沢祐一と戦うというのも嫌でしょう? だったら何でも、和平でもやればいいと思いますが…」
「そ、それはそうだけどぅ…せ、責任が…あいたたたた…」
ストレスで腹を痛める猫も珍しいと思う。
だが、それは結構いい話だと思えた。
今の時代、魔物の中にも人の輪に混ざって生活する者達だっているのだ。
流石に思考能力の無い低位の魔物を従える事は難しいだろうが、それよりももっと従えるのに苦労する存在を従えているプルートーなら、それも夢ではないと、そう思える。
「何時の間にか立派になっちゃって…」
不安は尽きることが無い。
考えれば考えるだけ嫌な考えが頭の中を埋め尽くす。
だがしかし、今のこの時を消し去るというなら、
―――精一杯抵抗してやろうじゃないか…
と、そう思えた。
今日も世界に朝日が昇る。
――― stage-9 he tortured past - 責め苛む過去 ―――
―END―
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