我が存在意義は魔女
魔女として生まれ、しかし―――

私は魔女を望まれなかった者
























† 有識世界・Knowledge †




















 魔法を愛している訳では無い。
 魔法を好きになった訳では無い。
 魔法に興味があった訳では無い。
 只、私が魔女だから魔法を使い、
 只、私が本の化身だから知識を得た。
 それだけ。





* 1 *






「なぁパチュリー。お前とレミリアって、どうやって知り合ったんだ?」

 それはそんな―――何気ない質問から始まった。

「……何? 魔理沙、突然」

 昼下がりのヴワル魔法図書館内。
 その書物に埋もれた世界の中、二人は本を高く積んだテーブルにつきながら本を読み漁っていた。
 紫色の髪の少女、パチュリー・ノーレッジは何時もの様に読書を。
 魔法使いの“様に”黒い衣服を纏った金髪の少女、霧雨魔理沙は何時もの様に“不法侵入”して読書のひと時を楽しんでいた。
 テーブルには書物の他に、この館でメイド長を務める十六夜咲夜手製の紅茶。
 その質問は、ちょうどパチュリーがその紅茶に口をつけ、静かに置こうとした時に投げかけられた。

「いや、ちょっとな。この館の中…何時もの面子で最古参は門番。次がパチュリーだろ?」
「そして咲夜が最後ね」

 パチュリーが補足する様に言葉を紡ぎ、魔理沙がそれに満足する様に頷く。
 この館の中、魔理沙が記憶している顔ぶれは、
 館の顔である吸血鬼、レミリア・スカーレット。
 その妹である吸血鬼、フランドール・スカーレット。
 この館、紅魔館の門番を勤める紅美鈴。
 レミリア付きのメイドにして、館全てのメイドをまとめる十六夜咲夜。
 紅魔館別棟、ヴワル図書館に住まう眼前の少女パチュリー・ノーレッジ。
 そしてそんな少女が召喚した使い魔である小悪魔。
 それが魔理沙が記憶している紅魔館の面々だ。

「門番は適当に敗北してレミリアに仕えているとして、」
「あら、美鈴には訊いてないの? 理由を」
「ん? あぁ、本当に思いついたばっかりだからな」
「そう…でも、美鈴は弱く無いわよ」

 そうなのか? と半ば半信半疑でパチュリーが言った言葉を疑う魔理沙。
 まぁ、それも分からなくは無い、とパチュリーは思う。
 この『普通の魔法使い』を自称する眼前の少女は、毎度の事ながら美鈴の守護する門を突破して、自分が居るヴワル魔法図書館にやってくるのだ。疑うのは自然だろう。
 しかし、

「美鈴は強いわよ? 接近戦に限定して戦うなら、先ず間違い無く咲夜は敗北するわ。満月の時のレミリアなら勝てるだろうけど…」
「…本当か?」
「あら、疑うの? 疑うなら、今度は自慢の箒から下りて戦ってみなさい。私の予想では三秒以内に決着がつくわ」
「私の勝ちでか?」
「…貴女が地面に這い蹲って敗北するのが、よ」
「…本当か、そいつは。勘弁願いたいぜ…」
「基本的に、鈴美はレミィから命令が無い限りは下手に相手を殺したりはしないから戦っても軽症で済むわ。変に高潔な処があるのね、美鈴は。だから、多分貴女達が始めて館に侵入しようとした時も本気は出していないと思うわよ? 私も詳しく聞いた事が無いから分からないけど…。美鈴はレミィを退治する為にやって来たらしいから」
「…それで戦ったのか?」

 らしいわ、とパチュリーが頷く。

「美鈴がやって来たらしい400年前、って言うのは丁度レミィが館を継いだ頃。時のスカーレット卿が亡くなったとは言え、脅威が一番叫ばれていた時代よ。目的が討伐であれ、武者修行であれ、相手としては申し分無さ過ぎる。その時に館を壊しながら戦ったらしいわ。結果、館内を移動しながら接近戦でやりあって、レミィが“六度殺された”処で美鈴の方が先に倒れた、と…」

 紅魔館の中では、間違い無く接近戦では彼女が最強ね。そうパチュリーは言う。
 美鈴は強い。
 何の妖怪かは分からないが、気という概念に強く理解を持っている点から仙人の類である事は間違い無い。
 体内に流れる“生命”を理解し、その流れの源泉である気門を開く事で万事に当たる者達。仙人。
 仙人の使う気功術、あるいは仙術と呼ばれるそれは、幻想郷が博麗大結界により遮断されるよりも遥か昔、大陸にて神の役割を果たした者達が扱った魔法である。
 それを極めた者は、天地を割り、山を動かした言う。
 もしも過去に、美鈴がこのレベルに達していたのならば―――運命を操る、神に叛く力を持った吸血鬼レミリア・スカーレットすら殺し尽くされていた事だろう。
 だが、彼女は神話伝承に載る程の力は有しておらず、敗北を喫した。
 そんな接近戦主体で戦う美鈴は、こと体術に関しては紅魔館で最強に位置する。
 当たり前か。曲がりなりにも仙術気功術の使い手。加えて言うなら、“運命”に干渉されながら生まれながらの高位種である吸血鬼に対して六度致命傷を与えたのだから、そのクンフーは計り知れない。
 だが、そんな美鈴も魔理沙達に敗北した。
 何故なら、その体術の本領は踏み込み―――足腰に関連するからだ。
 魔理沙や博麗神社の巫女は皆、空中戦が主体であり、魔弾や符による弾幕戦闘がメインになる為に敗北している。レミリアからの命令が無ければ下手に相手を殺す様な本気を出さないにしても、だ。
 そのナイフ捌きが最早神業級であるメイド長ですら接近戦では勝てるというのに、途端空中戦になった瞬間に負ける。パチュリーも接近戦にもつれ込まれた瞬間に死ぬだろうが、遠距離を保つだけのスペースで戦うのなら先ず間違い無くノーダメージで斃す事が可能だ。
 その裏に、吸血鬼すら討ち滅ぼすどんな手が隠されているかは別として…。

「そんな殺し合いをやった上で、何でレミリアが自分の下で働かせるのかイマイチ分からないんだが…」
「レミィもそう言うのが好きだから…だけど、だからこそ、この紅魔館全てのメイドや警備に慕われるだけのカリスマがある、とも言えるのかもしれないわね」

 魔理沙が頷く。肯定の意味でだ。
 美鈴もそうだが、この館にはレミリアに敗北したという理由で彼女に仕えている者が少なからず居る。
 最初は復讐の機を窺っているのだが、何時の間にか全てがレミリアを慕っている。
 そのある種異常なまでのカリスマに惹かれて。
 と、そこまで考えた時、魔理沙が思い出した様に『あっ』と声を出す。

「いやいや、最初の趣旨からズレてたぜ。それで、パチュリーはどうやってレミリアと知り合ったんだ? まさか門番と同じく殺し合いをやらかしたとか、か?」
「あぁ…すっかり忘れてたわ…」

 ふぅ、と溜息をこぼし、温くなった紅茶に口をつける。
 一口、二口を嚥下して、パチュリーは揺らめく紅茶に視線を落とした。
 そこには不健康そうな己の姿。目付きは半眼。肌も病的に白い。

 百年程前から、変わらない己の姿。
 変わったのは―――服装と、表情程度か。

「悪くない変化、ね…」
「あん?」
「…何でも無いわ。只の独り言」

 口に出していたみたい。
 珍しく口に笑みを浮かべ、パチュリーは思う。
 変わった。
 いや、変わる事が出来た、と。

「そうね…少しだけ話してあげようかしらね…?」
「おっ、良いのか?」
「今日は何時もより調子も良いし、それに―――」

 久しぶりに過去を思い出すのも悪くは無い。

「…さて、何処から話しましょうか…」





* 2 *






 魔女。
 そう呼ばれる存在がある。
 疫病を撒き散らし、災いを呼ぶ存在。
 かの基督教も、その存在の根絶を行った存在。
 在って、無かった存在だ。
 人が死ねば、魔女が呪い殺したのだ、と言い。
 病が流行れば、魔女が病気を撒いたのだ、と言われ。
 天災が降りかかれば、魔女が儀式によって引き起こしたのだ、と言われた。

 パチュリー・ノーレッジは魔界生まれではない。

 “外の世界”で生まれた“魔女”と言う幻想――妖怪、または魔物である。
 外の世界の歴史単位――西暦で十三世紀初頭から始まった魔女狩りは、十七世紀中ごろを通過する時には魔を滅ぼす異端審問官達によって三百万以上の人間が罰せられ、殺された。
 殺されたのは、何の罪も無い、普通の人。
 ただ、少しおまじないをしてみたら、異端審問にかけられた。
 ただ、夜の間に用事があって頻繁に出歩いたら、異端審問にかけられた。
 無き罪によって、火刑に処され、殺された者達。
 神に弓引く者。
 悪魔崇拝者。
 彼女達は等しく魔女と呼ばれ、殺された。

 やがて魔女狩りの最盛期を過ぎた頃、魔女に関しての書物が生まれる。
 たった一人の作家が作り出した、魔女の全てを記した本。
 Witch's knowledge ― “魔女の知識”
 と、そう銘打たれた本を。
 ウィッチズ・ノーレッジ。
 そこから、パチュリー・ノーレッジと言う名の幻想は生まれた。





* 3 *






「お父様?」

 近代欧州。
 都からは遠く離れた農村にある家の中で、少女の声が響いた。
 紫色の髪に、真っ白い飾り気の無いワンピースを纏った少女だ。
 そんな少女が顔を覗かせた部屋で、“お父様”と呼ばれた人物は一人黙々と少女に背を向けて机に向かい、何やら書いている様だった。
 その光景に少女は小さく溜息を吐くと、ぱたぱたと足音を立てて“お父様”の背後に近付き―――

「お父様っ!!」
「う、おわっ!?」

 その耳元で、気がつく様に大声を上げた。

「とっ、と…あ、あれ?」
「お父様、また本を書いてたのですか?」
「あ…あぁ…いや、筆のノリが良くてついつい…って―――」
「?」
「―――耳元で…別に叫ばないでもいいんじゃないかな?」
「普通に呼んで気付けば、私は声を荒げる様な真似はしません」

 そうだったの? と男が少女の表情を窺う様に訊いて来る。
 金髪に碧い瞳。
 外見的要素をそれだけ挙げるのならば、男は間違いなく美形の部類に入るが、それは違った。
 本来、陽光を受けて輝くだろうその金髪はくすみ、ボサボサに伸びた髪は後ろで適当に結ばれている。顎周りの無精髭も酷く、掛けている眼鏡は瓶底の様に厚い。
 少女は“お父様”と呼んだが―――少女の外見に対して、男の容貌からは一切繋がりが見えない程に似ていなかった。
 そんな男の不摂生さに、少女が呆れた様に溜息を吐き出す。

マスター(・・・・)ウィリアム。私は本来こんな事を言いたく無いのですが、」
「あ、いや、分かってるよ! ちゃんとするから! お説教は別にいいからっ!」

 少女の“力が篭った”言葉に、男が手を前に出してわたわたと振る。
 少女は『だったらちゃんと食事や…』と言葉を繋げた。どうやら違うお説教に路線変更したらしい。

 お父様―――マスター。

 どんな家庭であれ、子は親の事をマスターとは呼ばない。
 マスターとは、“仕えるべき主”の事を指すからだ。
 そう、少女は男の子供では無かった。
 そして―――

「うぅ…何で完成させた本から、説教大好きの女の子が出てくるのかな…」
「失礼ですね。説教大好きとは」

 少女は、人間では無かった。




 男、ウィリアム・ガーディナーは書籍を書く事を生業としていた。
 書く物は小説から、教会等から依頼される説法の文章化、または渡された資料を纏めて本にしたりと、雑食の様に色々な物を書いていただけの三流作家である。
 だが、そんなウィリアムは知らずの内に一つの禁忌へと触れていた。

 “魔女”の書籍化、である。

 本が書ければどうでも良い、というウィリアムが始めて己から作りたいと思った物。それが歴史の影であり、在って無き存在である魔女―――その歴史と知識を記した本の作成であった。
 決して裕福とは言えない金銭状況で各地を回り、魔女伝説を調べ、知り合いから秘密裏に魔女関連の資料を強請ったりと多くの“幻想”を集めたウィリアムは、本を作り始めて四年目に一冊の本を完成させた。それが、

 Witch's knowledge ― “魔女の知識”、である。

 本来ならそれで終わる筈だった。
 魔女、と言う物を題材にしている為に、魔女狩りの規制が低くなっているとは言え出版は先ず出来ない。もしも出版を試みた場合、教会が誇る異端審問官に拷問へと掛けられる事だろう。
 魔女との繋がりがある、として。
 だからそこで全て終わる筈だったのだ。

 ウィリアムが人伝で全ての資料と、業深き教会の資料を読もうとしなければ。

 数百年。
 魔女狩りが始まって数百年。被害者数は三百万。確実に二百万の人間が殺された教会の取り締まり。
 あらゆる規制が掛けられ、魔女に関しては教会の監視下でしか書物を書く事が出来なかったソレは―――ウィリアムと言う例外がかき集めた数多の業と、多くの人々が語り継ぐ幻想によって輪郭を生み出し、在って無き存在たる者をこの世に作り出した。
 深い業と幻想は、只の書物であったそれを魔導書(グリモワール)に仕立て上げ、魂を吹き込んだのだ。
 少女は書の化身にして、人々が描いた幻想の魔女。
 魔女の最終形こそが少女だった。

 魔法使いでも何でもない、普通の物書きが“幻想”を生み出してしまった。

 それは奇跡であり、または神罰の対象である。
 が、しかし―――ウィリアムは後悔もする事無く、少女を己の養女として扱っていた。
 まるでそれは、神が齎してくれた奇跡だと言う様に。
 魔と言う存在を愛していたのだ。

「そ、それじゃお昼にしよう。うん。そんな時間だった筈だよ」
「一つ違います」
「…え、何が?」
「今はお昼では無く、既に夕方です」
「あ、あー…僕、お昼を忘れてた?」
「その通りです」

 困った物ですね、と―――魔書の化身、紫色の少女は穏やかに微笑んだ。
 人々が恐れる幻想の魔女には似つかわしくない、優しげな笑みで。





* 3 *






 少女に未だ名前は無かった。
 いや、マスターであり、便宜上父親である者が仮に名付けてくれた名前ならある。
 ノーリッジ。知識と言う名前だ。
 だが、それでは余りにも華が無い、とウィリアムは言う。
 それでは名前ではなく、ある種“記号”になってしまう、と。
 だからウィリアムは少女の名前を考えていた。
 それはもう、真剣に。
 自分の子供の名前を考えるが如く、とでも言おうか。それ程までウィリアムは真剣だった。
 故に、
 少女が生誕してから数ヶ月が経つ今でも、未だ少女は名前が無かった。

 これに対して、一度少女が『もうノーリッジで良い』とウィリアムに言った事がある。
 しかし、それに対するウィリアムは至極真面目な顔でこう言った。

『自分の娘の名前くらい、ちゃんと考えてあげなきゃ親として最低だろう?』

 そう言われてしまってはしょうがない。
 己のマスターがそこまで言うのだから、少女は渋々ながら納得する。
 そうして名前が無いまま数ヶ月、されど有意義な数ヶ月が過ぎ、少女の運命が動き出す。





* 4 *






『贈りたい名前が一つあるんだ』

 と、彼は言った。
 それは大事な大事な名前で、娘となった少女に贈るのにすら躊躇った名前。
 名前をつけるという行為はウィリアムにとっては思考ではなく、過去との決別と覚悟の問題だった。
 愛した人が居た。
 過去形で表せてしまう彼女の存在は、既にこの世に居ないからと言えた。
 大事な大事な、記憶の中に愛と涙を以ってして植えつけられた消えない、消す事が出来ない名前はウィリアムにとって宝物である。
 だからこそ躊躇った。
 全ての思い出が秘められた名前、あるいは言葉を本当に渡して大丈夫なのか、と。
 それは双方に言える事だ。
 ウィリアムには過去との決別であり、少女にとっては重責となる。
 重い“想い”言葉。

『忘れる、という事では無いんだ』

 それは紡いで行くと言う事。

『だから僕は、君に大切な言葉を贈る』




『君の名は―――』




 っあ―――

 そこで意識が覚醒する。
 何度も何度も繰り返した行為に辟易しながら、少女は外界の様子を探る。
 棚に収められた数多くの本が処狭しと並び、それが上も下も左右構わず続いている。整然と並べられているが、そこに景観的な美しさは一切無く日の光が一切無いその世界は夜の闇を軽く超える闇が蔓延っていた。

―――汚濁図書館

 その世界はそう呼ばれていた。
 世界に跋扈する、ありとあらゆる“禁書”を封印する為に作られた“汚濁”の書庫。
 人面皮で作られた魔導書が右の書庫に並べられていれば、左には単純な魔導の知識が記された本がある。
 禁書、魔導書、聖典。
 世界のあらゆる秘蹟のオリジナルが集められたこの図書館にて、少女は約三年もの間一人で存在していた。

 あれから既に三年―――

 何があったのか、と問われるなら悲劇があったと簡単に締めくくる事が出来る。
 人の姿から書の姿に戻ってしまった少女が思い出す事と言えば、腹部を貫通した疑似聖槍と料理、燃える家屋と隣人の冷たい目線、そして―――父でありマスターである男が血塗れで転がる姿。
 何でもない、普段と変わらない日だった。
 起きて、朝方に寝ただろう父を起こし、料理洗濯を行う。
 その日、一つ変わった事があったと言えば、父が昼前に花束を持って出掛け、夕方に手ぶらで帰ってきたという事だけだった。
 少しだけ気になったが、普段と変わらず料理を作り、父の前に差し出す。

『君の名は―――』

 だけど父は料理に手をつけず、至極真面目な顔をして『やっと名前をつけられる』と不思議な事を言った。
 その言葉は思考の結果ではなく、覚悟の結果に生まれる言葉だ。だからそんな言葉を面と向かって言われた時は不思議になって首を傾げた。
 名前。
 父は、マスターは名前をくれると言った。
 どんな経緯が彼にあるのか少女には分からなかったが、やっと自分が“娘”になれる時が来たのだと内心で凄く喜んでいたのを今でも憶えている。

 が、それは果たされる事は無かった。

 呆気無い幕切れだった思う。
『君の名は―――』と言われた瞬間、黒い神父が数人雪崩れ込んで来たのだ。
 床に倒される父。
 助けようと動く自分。
 魔女だ魔女だと声を上げる神父達。
 は、っとなって見上げた先にあったのは、嘗て聖者の腹を貫いたとされる槍の模造品。
 拙い、と感じた瞬間には全てが遅かった。
 腹部を貫く槍は、体に集結した“幻想”を崩し、自身の本体である魔導書のページを貫通しきった。
 父の悲鳴が聞こえ、そして誰かの名前を呼んだのが分かった。
 人の形を失い、書の姿に戻って転がる中、やっと父が呼んだ“誰か”の名前が自分を指すのだと解り―――その時には既に聴覚を失っていた。
 その時点で全ての感覚を失っていれば、或いはその光景を目にしなくても良かったのかもしれない。
 必死に“少女だった書”に叫ぶ父に振り落とされる断罪の剣。異端審問官が持つ対魔霊装の刃が容赦無く父の四肢を貫通しきった光景。
 たった数分前まで何時もの日常を送っていた筈なのに、今少女が捉えている光景の中には微塵の欠片すら残されていない。
 魔女め、と神父が呟く。
 光在れ、と神父が祈りを捧げる。
 魔は祓われた、と神父が隣人達に告げる。
 そんな冷たい洗礼が続く中でも父は聴覚を失った“娘”に向かって名前を呟いていた。

『―――――』

 くっ…

 日課の様に思い出した悲劇を、思考を切り替える事で頭の隅へと追いやる。
 悲劇に目を向けていた処で今は何の意味も無い。
 どうせ出来る事は書に戻ってしまった自分には限られているのだから。
 そうして過去から目を逸らす。
 己のマスターを守れなかった事と、向けるべき憎悪から。
 そうして集められた汚濁から、己を再構成する為の魔力を今日も掻き集める。

『―――――』

 だが、一向に状態は完全には程遠い。
 あの槍に貫通されたのが拙かった。
 アレは神の子を刺した槍を模して作成された、聖なる血に浸された魔を討ち滅ぼす為だけの槍。
 永く深く息づいて来た“魔女”と言う存在の歴史全てを吹き消す事は出来なかったが、あの時点で保有していた力は根こそぎそぎ落とされてしまった。
 だが、一つだけ教会の異端審問官達が油断した事がある。
 それは、その魔導書に明確な意識が存在していた事だ。
 魔力を吹き消され、人の形を保てなくなるほど消耗していたとしても、その深い思考能力を奪うには至らなかったのだ。
 故に、本は自身が納められた場所にて力を取り戻す為に魔力を掻き集める。
 そして―――――

『必ず、名前を受け取る』

 仇を殺すのではなく、名前を受け取る。
 それこそが本の少女の全て。
 冷たいと思われるだろうか?
 だが、生まれ出でた時より知識の化身である少女は本能よりも理性を優先させる事に長けている。
 だから、少女のマスターが真に望む事を理解し、それに基づいて行動するのだ。
 マスターは決して復讐を望まない。
 そんな事はとっくに理解しているのだ。三年間も魔力を掻き集める事しか出来ない状態が続けば、他に出来るのは考える事のみ。考え、考え、考え続け、出た答えはあの人の普段の態度。
 知っていたのだろう。
 何時か、遅かれ早かれ“あんな事態”が起こる事を。
 そして本来ならば、異端審問官に狙われたとしても決して手を出すなと言うのだ。
『怪我したらどうするんだ!?』と、声を荒げて。
 だが、予想以上に異端審問官達が優秀だっただけでその全てが狂い、一気に全てが失われてしまった。

『………』

 あの人はどうしているのだろうか?
 生きているのか、死んでいるのか。
 思考はそこに辿り着く。
 大昔のままであれば確実に殺されているだろう。
 だが、断罪の剣はあくまでマスターの身体を縫い止める様に突き立っただけに過ぎない。
 考えてみればいい。
 情報管理が整いつつある1900年代初頭に、衆人環境の中で“人間の方”を簡単に殺すだろうか?
 それでは教会を恐れるだけで完全な信仰は得られないだろう。
 魔だけを殺し、彼を生かしたまま捕え、“魔から開放する”という絵を完成させた方が教会の信仰はより確かな物になる事は想像に難くない。
 だったら生きている可能性はある。

―――例え、そこに少女の存在は残っていなくても。





* 5 *






 あれから七年が経った。
 つまり当初の事件より十年が経過した事になる。
 人の形を取り戻すのには、あれからそう時間は掛からなかった。
 だが、未だ少女は汚濁の詰め込まれた図書館より出ていない。

「駄目ね…どうしても見つからな―――コホッ…」

 人の形を取り戻した時、先ず初めに感じたのが違和感だった。
 そして昔の様に歩き回り、その違和感に気付いた。立っていられない程の凶悪な喘息と共に。
 忌まわしき聖者の槍は、未だ少女の身体に深い傷を刻み込んだままだったのだ。
 魂、あるいは存在自身に深くつけられた傷痕は、人の形にて行動する際に多大なリスクを作り出していた。
 だが、人の形を得なければ歩く事もままならず、どうしようも無い。
 だからこそ少女はその傷痕を癒す為にも、ここに集められた世界の禁忌を読み漁っている、のだが―――

「魂の回復だけは、どうしても上手く行かない…」

 七曜全ての魔術に精通しても、致命傷を回復させる程の術を手に入れても、ここには魂の傷を癒す術は無かった。
 当然と言えば当然なのかもしれない。
 人が生み出した最高の魂への干渉術は反魂。抜け落ちた魂を現世へと呼び戻す方法だ。魂に傷をつけられたなら黄泉返る事など不可能。だから“魂の復元”に関する箇所だけが穴を開けた様に抜け落ちているのだ。

「…拙いわね…」

 暗い世界で一人呟く。
 マスターが生きていたとしても、時間が経ち過ぎれば死んでしまう可能性がある。
 彼は人間。悠久の時を生きる幻想の生物ではない。僅か数十年と言う枠の中で生きる自分とは違うカテゴリーに属する存在である。

「…空間転移…それしか無い…?」

 だが、彼が未だにあの場所に居るかは定かではない。
 生きているかも判らないのだ。
 どうすれば―――




―――来たれ…




「っ…」

 瞬間、思考を引き戻す。
 まただ、と再び思考を動かした少女は思う。
 一年前より聞こえる様になった声。
 何か(・・)に存在が引きずられそうな感覚。
 もしもあの声に身を委ねてしまえば、ここではない何処かに飛んでいってしまいそうな感覚だった。
 それは日に日に強まり、少女を別の意味で焦燥に追いやる。

 二重の意味で、少女には時間が無い。

 マスターの寿命が尽きるのが先か、この呼び声に引きづられるのが先か―――
 少女には時間が無い。

「くっ…―――しっかりしなさい知識の番人(ノーレッジ)…目先の不安に惑わされては本来進む筈の道すら失うわよ…」

 思考のリセットを掛け、瞬間的に理性を呼び戻す。
 優先させるのはマスターに逢う事。
 空間転移は己が知っている場所か、マーキングが施された場所にしか飛ぶ事が出来ない。
 それ以前にマスターの安否が気になる。
 あの人が居なければ空間を飛ぶ意味すら無いのだ。
 どうする?
 どうすれば良い?

「それ以前に、この場所から出ない事には空間転移の魔法は使えないわね…」

 そしてそこに行き着いた。
 汚濁が詰め込まれたこの場所は、余りにも多くの神秘が集いすぎて互いの存在が干渉しない様に打ち消しあっている。
 魔力が充満しているにも関わらず、集めるのに時間が掛かったのはそれが理由だ。
 この場所は多種多様な“念”が強すぎる。

 ここを出て、取りあえず逃げる。それしか無い…?

 この互いを打ち消しあう以上に、禁書達が持つ呪いと言う毒の中での生活はある種異常なまでの力を与えてくれた。直接力を振るった事は少女には無くても、その力がどれほどの破壊を呼び起こすかは単純な思考から答えを導き出す事が出来る。
 人々が恐れた魔女と言う存在の様に、限定範囲内で天変地異を引き起こす事すら不可能では無いだろう。
 だが、戦闘になってしまった時、少女には戦い抜く自信が無かった。
 魔法を行使する為には詠唱が必要であり、声を発するには多量の空気が必要になる。
 呼吸器系を多分に行使するこの行為は、弱点である喘息を招く事に繋がりかねない。
 異端審問官の一人や二人を倒すのは、今の少女にとって造作も無い事だが―――ここは少女にとって敵の巣窟、敵の数は一人二人ではきかない。
 戦闘が長時間に至った場合、少女は倒れ、今度は復活出来るチャンスを失い殺される。
 逃げるしかない。
 逃げるしかないのだ。

「…死ぬか、生きるか、ね…」

 悪くは無い、と少女は思う。
 どうせこの中に居ても本として生きるしかないだけ。ならばいっそのこと思い切って勝負に賭けた方が良い。

 今でも生きていない(・・・・・・)のなら、私は―――

 少女が図書館の中を歩き出す。
 戦闘を仕掛けるなら夜襲の方が人間にとってはいいが、生憎と一切の日の光が入らないここでは時間が分からない。

 ならば時間の方が惜しい。

 例え真昼間に出てしまったとしても、ここは敵にとって中枢だろう。敵が存在するとは思わない筈だ。

「身体の調子も―――まぁ、普段に比べれば悪くは…無いわね…」

 少女は嘗ての様に紫の髪を揺らし、白いワンピースの姿で図書館と呼ぶには余りにも毒々しい世界の中を進む。

 まぁ、不本意とは言え十年を過ごした場所…感慨深くはあるわね…。

 得られるだけの知識、得られるだけの術は得た。
 これで駄目なら―――もう、諦めるしか無い。
 軽い足音を立て、ついにこの世界の出口へと少女が差し掛かる。
 少女の眼前には世界を遮る扉。
 書の呪いを押さえ込む為に、魔法による施錠が何重にも掛けられた扉の前、少女がそこに手を当てる。
 既に扉に仕掛けられた施錠は、人の形を取り戻してから数日の内に解析を終了している。

「力を押さえ込む為だけに掛けられた、単純な力だけの施錠…今の私なら不可能では無いわ…」

 少女の手のひらに魔力の光が灯る。
 それは構造上の欠点を突き崩す様に進み―――

 ぱきっ…

「っ…開いた」

 ガラスが割れる様な音と共に掛けられていた施錠は破れ、世界を遮る扉から光が溢れ出す。

―――昼っ!? でも、やるしか無い…!

 開け放たれる外の世界。
 昼の世界に目を焼きながら見るのは、呆とこちらを見る二人の人間の姿。

「降り注ぐのは焔色の狼煙―――」
「なっ!?」
「―――戦場を染める槍」

 【 アグニシャイン 】

 未だ事態を把握出来ていない相手に向かって放たれるのは世界を焼き払う炎の槍。
 扉の前に広がる広場の芝生を焼きながら迫るその猛威に、彼らが意識を引き戻した時には既に遅い。
 眼前に迫っていたそれを避けるには、余りにも彼らは事態の把握が遅すぎた。

 轟ッ!!

 着弾した炎は爆裂の轟音と共に辺りへと燃え移り、処構わずその劫火でもって舐め尽くす。

 今の内に―――!!

 時間は限られている。ここでもたもたしていては命を失う。

 そして、目的を達成する事が出来なくなる。

 意識の中から己が身を置いていた場所を引きずり出す。
 あの懐かしき家の位置も、風景も、セピアに色褪せてしまったが確かに覚えている。
 忘れていない。

「忘れるものか…」

 帰るんだ、あの場所に。
 世界の音が遠ざかる。
 逃がすな、と言う怒号が聞こえるが既に遅い。
 こちらは世界を区切り、既に転送状態に突入した。
 帰れる。
 やっと―――




―――来たれ




 セピアが崩れ去った。





* 6 *






「…き…………」

 意識が断絶してどれくらいの時間が経ったのか分からない。
 水の中を彷徨う様な不確かな感覚の中、誰かに呼ばれた様な気がして、少しだけ意識が世界に舞い戻る。

「起き………い」

 自分はどうしたのだろうか?
 そう―――書庫から出て、火の槍を撃ち放ち、それから―――

―――来たれ…

 あの言葉に呼ばれたのだ。

「起きて下さい!」
「っ!?」

 その声に、全ての感覚が浮上した。
 目を開き、感覚を確かめる間も無く眼前に手を翳す。
 詠唱さえ完了すれば、何時でも相手を吹き飛ばせる状態にある。
 しかし、

「あー、あんまり警戒しなくてもいきなりは攻撃しませんよ?」

 だから大丈夫です、と―――その紅色の髪を腰の中ほどまで流した女性に止められた。

「…ここは何処?」
「?、ここは紅魔館ですけど?」

 紅魔館? 聞いた事の無い場所だ。
 手は眼前に翳したまま、視線だけを横へと向けて己が居る場所を確認する。

「……本?」
「ここは紅魔館別館のヴワル大図書館ですけど…何でこんな所に?」

 そんな事、私の方が訊きたいくらいだ。
 何故、こんな場所に私は居る?
 空間転移の魔法は成功した筈だ。
 何処にも不備は―――




―――来たれ…




「あの声っ…」
「わっ…と、何ですか突然?」

 そうだ。
 自分は呼ばれたのだ、あの謎の声に。
 だったら―――あの声は…。

美鈴(メイリン)

 その時、全てを停止させる声が響いた。

「レミリアお嬢様…」
「レミリア…?」

 声が響いた先、この大図書館の入り口にその姿は在った。
 銀色の髪に背中には羽、お嬢様然とした姿は可愛らしくもある。

 だが、その存在感は圧倒的だった。

 この世界の全てを見透かす様な紅い瞳は魅入られてしまう程に美しく、幼い姿に反する様に威風堂々とした風格がある。
 人間では持つ事が出来ない力の波動が、少女から放たれていた。
 つまり、それは、

「―――貴女も…魔物…」
「ご名答。…美鈴、下がって良いわ」
「あれ? 良いんですか?」
「えぇ、私達(・・)の客人よ、彼女は」

 そう告げながら銀の髪の少女は歩み寄ってくる。
 その言葉で全て納得したのか、紅色の髪の少女はそれだけで滲んでいた警戒の気配を解く。

 どちらも、只者ではない…。

 今の自分では相手にならないだろう。
 格が、違い過ぎる。

「改めて、ようこそ―――知識の番人(ノーレッジ)よ。紅魔館の主である、この、レミリア・スカーレットが歓迎しよう」

 そうして、訳も分からぬ侭に未だ名前無き少女は紅き館の吸血鬼に歓迎を受けた。





* 7 *






 つれてこられたのは館の主だと名乗ったレミリア・スカーレットの部屋だった。
 椅子に座る様に勧められ、座ったら座ったで眼前には淹れ立ての紅茶。
 紅茶の方は今現在レミリアの隣に立つ女性、美鈴と呼ばれた女性によって淹れられた物だ。

「どうぞ? 毒なんて入れてないから遠慮無く飲んでもいいわ」
「………」

 上目遣いにレミリアを見て、改めて紅茶を見る。
 十年ぶりに口の中に物を入れる事になる。
 毒云々の心配よりも、その事の方が心配だった。

「…頂くわ」

 覚悟を決め、ティーカップを手に取る。
 カップ全体に伝わるじんわりとした熱を手に感じながら、恐る恐る少女はカップに口をつける。

「どう? 味は」
「…申し訳ないけど、何か物を口に入れるのは十年ぶりなの」
「でも、今の貴女にとって美味しいか、それとも不味いかは判断出来るでしょう?」
「…そうね……美味しい、と私は感じているわ」
「お褒めに預かり光栄です、お客様」

 少女の言葉に美鈴が頭を下げた。
 その光景に満足した様にレミリアが頷き、そして再び少女へと視線を戻す。

「色々と訊きたい事があるでしょうけど、先ずは自己紹介をしましょうか―――美鈴」
「はい」

 と、レミリアの声に従いメイドの姿をした女性が歩み出る。

「私はこの紅魔館にてメイド長兼、警備隊長を務める(ホン)美鈴(メイリン)と言います」
「そして私がこの館の主であるレミリア・スカーレット。吸血鬼よ」
「吸血鬼…」

 それは夜の王たる種。
 生まれながらの超越者。
 成る程、と理解する。
 先ほどのあの圧倒的存在感は魔法の類による物でも何でも無く、彼女自身を確立する超越種としての存在感だったのだ。

「ご理解頂けたかしら?」
「えぇ、今の(・・)私では絶対に勝てない事をね…」
「―――ふふっ…“今の”、なのね?」
「………」
「そう、そうでないとね…うん、やはり待った甲斐があったと言う物だわ…」
「…?」
「いや、失礼。予想以上だったから嬉しかっただけ。さぁ、お客様? お客様の自己紹介もして下さるかしら?」

 心底楽しそうに眼前の吸血鬼が微笑みながら自分の紹介を薦める。
 予想以上、と彼女は言った。
 自分が何か彼女を楽しませる事をする、と言う事象を彼女は予想していた、と言う事だろうか?
 判らない…未だ彼女を計るにはファクターが少なすぎる。
 一度、二度頭を振り、少女は思考を切り替えた。
 先ずは自己紹介をして、それから訊けばいい。
 それだけの事だ。

「私は、」

 と、そこまで言って、
 自分には未だ―――名前が無い事を思い出した。

「…悪いけど、」
「…?」
「紹介すべき事が、私には殆ど無いわ…」
「それは…」
「私が“魔女の幻想”であると言う事以外に、私が私だと(・・・)告げられる言葉は無いわ。だって、私は未だ―――名前が無いもの」

 そこで一番驚いたのは美鈴ではなく、予想外にもレミリアの方だった。
 見透かす様な瞳は現在、驚きに見開かれ、自分を見つめている。
 だが、それも数瞬。
 レミリアは直ぐに平静を取り戻すと、その視線を細めた。
 少女を見ている様で、しかし違う物を見ている様な瞳の色。
 何をしているのか、と口に出して質問しようとした時、レミリアの口角が何か面白い物を見つけた時の様に吊り上った。

「あぁ、そうか、そう言う事か…貴女の“運命”が見えないのは―――」
「…運命…?」
「成る程ね…幹は見えても枝葉は見渡せない、先読みは本来私には出来ないんだったわ…」

 そうだったわね、と一人理解したのかレミリアが頷く。
 全く理解出来ない。

「…説明の方をお願い出来るかしら…?」
「あぁ、ごめんなさいね? 不得意な事を得意だと錯覚してたから取り乱してしまったわ」
「そう? それなら、さっきから“運命”やら“先読み”とか、そう言った事も含めて説明して欲しいわ」
「そうね…先ずは、貴女を客人として招いた事から説明しましょうか」





* * *






「運命を、操る能力…」
「そう言う事よ。だから、私は本来【 先読み 】は出来ないのに、自分の運命を見て先読みした気になっていたの」

 それは彼女の能力の話だった。

 【 運命を操る程度 】の能力。

 それは、その部分を聞くだけならありとあらゆる者が危険視する事だろう。
 実際、話を聞いた少女自信も危険だと思っている。
 だが、その運命を操る力も万能でない、と言う事らしい。
 何でもかんでも自分のしたい様に運命を作り変えられる、という事では無いとの事だ。
 例えば、レミリアが相手の運命を手繰り寄せ、『お前はここで死ぬ』と、余りにも明確な運命は操る事が出来ないらしい。
 彼女の“運命を操る”とは、数ある現在の運命分岐点から有り得る可能性を手繰り寄せる(・・・・・・・・・・・・・・)、と言う事に他ならない。先ほどの様に例えるなら、レミリアが攻撃を繰り出した時に、レミリアには相手の可能性を視認、そこから、例えば『相手が躓き体勢を崩す』と言う運命や、『己の攻撃が外れずに中る』と言う運命を掴み取る、と言う事だ。
 かなり絶対的な能力であるが、しかし―――躓いて『そこから避ける』や、中ったが『受け止めきった』と言う想定外の事も、やろうと思えば出来るらしい。今までそれが出来たのはレミリアの横に立つ美鈴だけ、らしいが。

「だから、今日、私達にとってのお客様が現れると言う事は知っていたのよ」
「そして、貴女は“貴女自身”の運命を見ていただけなのに、私の運命を見ていた気になっていた、と」
「そう言う事。理解が早くて助かるわ」

 理解する。
 彼女の能力は、限りなく完全に近い“不完全”だ。
 限り無く、この世に神と言う存在が在るなら、それに最も近いだろう能力。
 吸血鬼と言うだけでありとあらゆる幻想の化生達が忌避し、多くの人間が慄くというのに、それに加えて神の如き能力。
 まさに規格外と言う言葉をそのまま体現した様な存在が眼前にある。
 だが、と少女は思う。
 何故か自分は眼前の超越者に対してそれ程の恐怖感も、そして拒絶も覚えていない。
 自分が魔女と言う幻想だから、そんな理由ではない。
 心の奥底から“永い付き合いになる相手”であると認めている様な錯覚の如き感覚。
 相手の手中に収まっているのか? と疑問を覚えるが、しかし―――嫌では無かった。

「それで、次の話に移っても良かったかしら?」
「…えぇ、どうぞ」

 レミリアの楽しそうな笑みに、こちらも久しく忘れていた笑みを浮かべる。
 そう、これは悪くない、と思える状況だった。

「貴女の運命が見えない、と言う話だけれど、」
「………」
「第一に、これは貴女の“真名”が定まっていない事に起因するわ」
「真なる名、ね…この世に生を受けた後に定める固有名詞、で良かったかしら?」
「えぇ、その通りよ。生物の種族名以上に、その存在が持つ固有名詞とはとても大切な物。今の貴女は道の無い草原を彷徨っているだけに過ぎない。運命を切り拓く、と言う言葉があるけど―――あれは“ある程度の道”が定まっていてこそ出来る事でもある。故に今の貴女は私みたいに強い運命の者が居れば容易く絡め取られてしまう事になるわ」

 成る程、と理解する。
 それならば、自分が発動した空間転移の魔法が失敗したのは―――

「それは違うわ」

 その疑問をレミリアに向けて告げるが、それは否定された。

「あの場所…ヴワルは全ての書物が最終的に行き着く先なの」
「行き着く先…」
「そう。貴女は書の化身、魔女の書物から生まれた幻想でしょう? だから貴女はヴワルに呼ばれたのよ。世界から忘れ去られつつある書物が、旅の最後として行き着くのがあのヴワル大図書館と言う書物の世界よ。だけど…」
「…何?」
「貴女は生まれてから十数年、と言った処。忘れ去られるには余りにも早すぎないかしら?」
「元々私はたった一人の人間によって完成させられ、彼の世話をする―――」

 為だけに在ったのだから、その言葉は口から出なかった。
 待て、忘れ去られつつある、と彼女は言ったのだ。
 つまりは、声が聞こえた一年前までは彼が確実に生きている(・・・・・・・・・・)と言う事に繋がる。
 ならば今は?
 彼が自分を忘れつつある、あるいは死―――?

「落ち着きなさい」
「っ…」
「段々青くなる顔を見てても良かったのだけれどね…何も言わなければ直ぐにでも飛び出して生きそうだったから先に止めさせて貰うわ」
「何…?」
「貴女が考えただろう事に関して、第一に続く第二をお話しするわ。きっとこれの方が貴女にとっては大事な筈よ」

 第一…真名に関しての話。
 運命が見えない、と言う事に関しての続きと言う事になる。
 焦燥を知識欲で多い被し、多少の理性を引き戻す。

「貴女の運命が見えない事に関しての第二の要因はね、貴女の真名を他人が握っているからよ」
「他人が?」
「貴女につけられる筈の名前を、未だ“その人物”が握っている為か…私には貴女の運命に被さっている他人の運命が見えているのよ」

 他人―――マスター!?

「その人は今どうして!?」
「だから落ち着きなさい、と私は言ってるのよ。…そうね、存命はしているわ。私が確認出来る範囲で、数日以内…いや…数年以内に死へと直結する様な運命に出遭う確率は見えない程に低いわね」

 あの人が生きている。
 その事に心底安堵した。
 だが、と思う。
 あの人は生きている、だと言うのに―――どうして私の存在が忘れ去られようとしているのか?

「諦めがつきそう、と言う事かしらね…?」
「それは…」
「運命線に寄り添う運命線が見えるわね…多分だけど、一生の伴侶が出来た、と言う事かしら」

 長い時間は、彼の傷を癒してしまったと言う事なのだろう。
 あるいは、癒され、寄り添って生きるべき相手を見つけたと言う事に他ならない。
 自分は彼の中で“過去のモノ”になりつつあるのだ。

「さて、これを聞いた上で私は問うわ」
「………」
「行くか、行かないかを」

 運命を握る吸血鬼が下した選択肢が、眼前にぶら下がる。
 彷徨う私が選ぶのは―――





* 8 *






 そこは、十年の間に少しだけしか時間を進めなかった様に、余り変化は無かった。

「………」

 轟と流れる風が直ぐ横を通り抜け、落ちた雑草達を攫って空へと舞い上げる。
 空を見上げれば足早に流れる雲の群れ。
 遠くには羊の鳴き声が聞こえる。

―――変わっていない。

 季節と言う変化以外に、特に変化と言えるだけの変化がそこには無かった。
 歩をゆっくりと進め、呼吸を乱さない様に気をつけながら歩き続ける。




『いい? 貴女は既にヴワルへと呼ばれてしまった身よ。貴女の空間を飛ぶ術があればこの幻想郷からも外に出れるでしょうけど、完全に捕まった貴女は次の呼び声で自動的にヴワルへ逆戻りする事になるわ』




 吸血鬼レミリアの言葉を思い出しながら、少女はそれでも歩みを止めない。
 諦めをつける、と言うのとはまた違う。
 そうではないのだ。
 私は嘗てマスターを守れなくて、

『君の名は―――』

 名前の一欠けらも受け取ってあげる事の出来なかった、親不孝な存在。
 だから、
 だからこそ、一言だけでもいい。
 私は謝りたいのだ。
 名前は欲しい、それ以上に―――謝罪と、感謝の言葉を、私は述べたい。

「―――――」

 何度目かの強い風が大地を舐める様に走り去った時、その家はあった。
 かつて在った場所とは少しずれた場所に建った家屋。
 その小さな家屋の前には、

「マスター…」

 安楽椅子に寄り掛かる、四十を過ぎた男の姿。
 息を呑み、しかし臆せずに足を進める。
 時間は限られている。躊躇している暇は無い。
 それは十年と言う時間を越えての再会。
 分かっている。
 一番最初に投げかけられる言葉と、返すべき言葉を。
 運命を見れなくても、未来視が出来なくても、それだけは識っている。

「おや…こんにちは」

 予想通り―――彼は、私と言う存在を嘗ての私に当てはめられないでいる。
 判っている。解っていた事だ。だから―――落胆はしない。

「こんにちは…こんな天気の良い日に日向ぼっこ…?」
「ん? あぁ、丁度執筆が一息ついたからね」
「あら、何か本を書いてるの?」
「そうだね…童話を執筆してるよ…昔は、違ったけど…―――」

 懐かしむ様に、彼は遠い瞳で天を見上げた。

―――懐古。

 そんな言葉が当てはまる様に遠い表情。

―――あぁ…

 と、そこで納得する。
 レミリアの言った通りだった。
 彼は既に、あの私が在った時代を、過去として捉えている。
 書ければ、只それでいいと言う生活。
 満足だけを追い求めていた、あの頃の生活を。
 私と共に過ごした数ヶ月を―――。

「今―――」
「うん…?」
「今、貴方は幸せ?」
「―――…そうだね…」

 ザッ―――と、風が間を縫う様に流れた。

「幸せかな…」
「………」
「少し遅いけど、奥さんも出来たし…僕は、きっと幸せなんだと思う」
「……そう、それは―――本当に良かった…」

 表情を隠す様に視線を伏せる。
 涙が流れそうだった。
 彼は幸せだと言う、その事実に。
 安堵と、感じてしまった無力で。
 それならば―――後は、謝罪と感謝の言葉を―――

「昔ね…君よりももっと年齢の低い子を預かった事があるんだ」

 突然、彼はそんな事を言った。

「―――――」
「彼女はね、不幸の要素で作られた女の子だったけど、僕はそんな彼女でも、幸せをあげられると思っていた」
「どうして、そんな話を…?」
「君の姿が、少しだけ彼女に似ているから、かな…」

 そうして彼は苦笑し、再び天を見上げる。

「だけど―――僕が不甲斐なくてね…小さな女の子一人、幸せを教えてあげる事が出来なかった」
「それは、違うと思うわ…」
「えっ…?」

 それは違う。
 思った瞬間には、既にそう口にしていた。
 私は、感謝している。

「その子は、きっと、幸せだったと思うわ」
「…そうかな?」

 だって、私は楽しかったもの。

「そうよ。だって、貴方は楽しかったでしょう?」
「――――――――――」

 記憶が、溢れ出す。
 彼が魔導書を完成させてしまい、そこから少女が出現してからの―――たった数ヶ月の物語。
 朝は起こされ、又は起こす喜びを知った。
 共に席に着き、テーブルを囲んで二人でご飯を食べた。
 夜は書物の少女に話を聞かせ、又は話をする。
 短くて、だけど温かな日々。

「―――あぁ…そうだった」

 別れのシーンが余りにも強すぎて、過程である日々を全くと言っていいほどに忘れていた。
 そうだったのだ。
 自分は笑っていた。
 少女も―――薄っすらとだが、笑っていた。

「ありがとう。僕は大切な事を思い出す事が出来た」
「どういたしまして」

 くすり、と少女は小さく笑み、踵を返す。

「―――行くのかい?」
「えぇ、私も割りと忙しいから」

 そうかい、と彼は言う。
 そこで少女は思い出した様に言葉を口にした。
 最後の―――質問を。

「あぁ、最後に…」
「ん? なんだい?」
「その子の名前は―――何て言うのかしら?」

 背を向けたままに少女は問う。
 彼は意外だったのか、数回瞼を下ろすと懐かしそうに目を細めた。

 その名前は、魔女の幻想の為に用意されたのではなく―――

「パチュリー」
「…パチュリー?」
「そう、元は最初の奥さんの名前だったんだけどね…」
「そんな大事な名前を?」
「好きには―――変わりない無いだろう?」

―――彼の娘としての少女に与える為だけの、大切な言霊。

「そう…そうね」
「…うん」
「ありがとう」
「――――」

 ザッ―――と、少女と彼の間を裂く様に一際強い風が吹き―――

『それと御免なさい…』

―――少女の姿だけが、その世界から消失した。
 それは、まるで―――幻想の様に…。

「ありがとうだけで良いのに…」

 苦笑して、彼が立ち上がった。
 遠くにはこちらに歩いてくる妻の姿。

「全く、あの子は…」

 彼は、確かに幸せだった。





* 9 *






「もう、用は済んだの?」
「えぇ…全部、ね」

 あの頃から、幾分か身長が伸びた姿。
 擬似聖槍に貫かれた後遺症の為か、血色の悪くなった肌色。
 だが―――変わらぬ紫の髪。
 彼は最後に気付いたのだろうか?

「いえ…」

 そうであったとしても、そうでなくても―――構わない。
 感謝は述べた。
 謝罪はした。
 共に在れないという、小さな悔いは残るが―――

「それでは改めまして、紅魔館の主」
「えぇ」
「私は魔女。数百年世界の裏側を蔓延った魔女の幻想―――パチュリー・ノーレッジよ」
「えぇ、改めて歓迎するわ…この館の主が、貴女の事を」

―――あの時間と、彼の名と、私の固有名は、確かにこの己と言う書物の中に刻んであるのだから。

「宜しく、魔女」
「宜しく、吸血鬼」





* Epilogue *






「―――…」

 全てを話し終わり、口を閉じる。
 途中からは話を聞く魔理沙の様子を気にせずに話し続けてしまった。
 何時も以上に饒舌な自分を想像し、多少だが羞恥で頬を染める。
 そっと視線を魔理沙へと移せば―――

「………」

 寝こける魔理沙の姿。
 どうやら魔理沙が寝てしまったのにも気付かずに話し続けてしまった様だった。
 その事に多少の安堵と、相手の失礼さに怒りを覚えながら、そっと小さく息を吐き出した。

「リトル…」
「―――――はーい、何ですかパチュリー様ー」
「魔理沙に何か掛けてあげて」

 自分の使い魔である子悪魔を呼び、自分は再び本へと目を落とす。
 小悪魔は、そんなパチュリーに向かって小さく笑みを見せると、毛布を用意しにさっさと行ってしまった。

「…ふぅ…」

 溜息を吐き出し、もうすっかり冷えてしまった紅茶に口をつける。
 紅茶に映るのは、今も昔も余り変わらない自分の姿。

「………」

 紅魔館に来てからは色々あった。
 ヴワル大図書館での生活から始まり、小悪魔の召喚。
 レミリアの妹、フランドールとの挨拶代わりの戦闘行為。
 賢者の石の作成。
 現在メイド長を務める十六夜咲夜の就任。
 そして、今現在自分の前で寝ている霧雨魔理沙の出現。

「全く…退屈しないわね…本当」

 苦笑して、クイッとカップに残った紅茶を全て飲み干す。
 今は―――幸せだろうか?
 カップを置きながら、脳裏にそんな言葉が思い浮かんだ。
 吸血鬼の友人が居て、
 紅魔館の賑やかな面々に囲まれ、
 そして変な“普通の魔女”が居る。

「ま、悪くは無いわ…」

 何れは今の日常も終わるのだろう。
 自分の時間と、周りの時間は決して同じではないのだから。
 だが、それでも退屈はしそうに無い。
 どうやら、そう言った事には退屈しないような星の元に生まれた様だから。

「全く…」

 己は魔女。そして本。
 知識を保有する存在。
 ならば誰かが自分を見る為にやってくる。
 きっと暇な日が来ても、存在が朽ち果てるまでは客は途切れないだろうから。

「マスター…私は幸せですよ…」

 本はここにある。
 知識を有する魔女は、今日もこの世界にて本を読む。
 これからも、きっと。



end






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